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 ■翻訳読書ノート 28「メソポタミアからの手紙」         北田敬子

イラクについて最新情報を知りたいなら本など読んでいる場合ではなか
ろう。メディアは時々刻々、戦争について、新政府について、「テロリ
スト」について、また僅かながら住民の声さえもわれわれの手元に届け
る。イラクは断片的なニュースの接ぎ合わせとなって眼前に現れる。い
よいよ各国軍は撤退の時を探っている。しかし、この戦争はいったい何
だったのかと根本的に問い直そうとするならわれわれは歴史書を繙くし
かない。だがいずれの書を?

『砂漠の女王-イラク建国の母ガートルード・ベルの生涯』(ジャネット・
ウォラック著 内田優香訳 ソニーマガジンズ発行 2006)を手に取っ
たのは偶然だった。本当はイラク人女性の書いた本を探していたのに、
ヴィクトリア朝英国の富裕家の令嬢にして考古学者、登山家、諜報部員、
外交官、と多彩な顔を持つ女性の伝記に遭遇してしまった。怜悧な彼女
が「アラビアのロレンス」を「ぼうや」と呼び、ファイサル国王の憂鬱
な胸の内さえ聞く女丈夫でありながら、ついに叶わぬ恋に身を焦がす孤
独な存在であったことも余すことなく記されていて、卓越した女性の成
功譚に終始していないところがこの作品の魅力であろう。彼女の折々の
行動も発言も、彼女が起草した数々の公文書からだけではなく、もっぱ
ら彼女が繁く書きつづった家族(主に父)への手紙から引用されてこの
本は成り立っている。果敢に砂漠を駱駝で旅しイラクの国境を策定しな
がら、故国へのドレスや帽子の注文もぬかりない。同僚たちを鋭く批評
する一方、賞賛にも批判にも過敏なまでに反応する。そんな心の襞をあ
りったけ託した手紙のために、ガートルード・ベルは神秘のヴェールと
は無縁の存在になった。

砂漠の民を愛するとはいえ、結局は英帝国のために最善の道を模索し続
けた彼女の働きも、帝国の凋落と同様終焉を迎える。イラクの人々、
とりわけ長く声なき存在であった女性たちが将来ガートルードをどう評
価するかは未知である。だが、外交官の父を範としながら国際情勢や歴
史を肌で感じて育ったという気鋭の翻訳者が、イラクをよく伝える書と
して今日の日本に本書を紹介したことは特記しておきたい。居場所を求
め、力を発揮する舞台を求めて高峰を目指したガートルードの嘆息まで
も、活き活きと伝わる訳文である。ちなみにガートルードの撮影した夥
しい写真はニューカッスル大学のアーカイヴで堪能することが出来る。
この書籍に導かれ、踏破出来る規模の大きさはめざましい。

The Gertrude Bell Archive http://www.gerty.ncl.ac.uk/
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 ■翻訳読書ノート27「勝負の相手」

小説はケーススタディではないし処方箋でもないのは分かっているけれ
ど、難題解決の鮮やかな手口が書いてあるのではないかとつい期待して
しまうことがある。「ケイトは負け犬じゃない」(アリソン・ピアソン
著 亀井よし子訳 ソニーマガジンズ 2004年刊)はシティで働くファン
ドマネージャーにして5歳児と1歳児の母ケイトが、激務と家庭生活をど
う両立させていくのか(あるいは、いけなくなるのか)をミステリー顔
負けの迫力で描く。このケース(キャリア追求と「人間的な」家庭生活
の同時実現という課題)に興味のない向きには全く面白くない小説だろ
う。だがもしこの種の問題に一度でも直面したことがあるなら、男女を
問わず強烈な磁力をもって数日間読者を虜にすること請け合いだ。

「ブリジッド・ジョーンズの日記」(ヘレン・フィールディング著 亀
井よし子訳 ソニーマガジンズ刊)の愛読者はきっとこちらにもはまる
だろう。ブリジッドの物語が結婚相手をゲットするというジェイン・オ
ースティン以来綿々と書き継がれてきたロマンティック・コメディ(の
形を取るイギリスの伝統的風俗小説)の系譜に属するとしたら、ケイト
は結婚の次に待ち受けるバトルに出陣する戦士。一見豊かな社会におけ
る恵まれた階級の女の身勝手な言い分とも読めるが、根底にあるのは社
会的性役割への体当たり的抵抗の物語である。(いや、これは「クラス」
を超越しようとする階級闘争の物語ですらある。)身に覚えのある女た
ちは随所でほくそ笑み、腹を抱えて笑い、時に胸を締め付けられて涙を
浮かべることとなる。そういう女と関わったことのある男たちはおそら
く最初から最後まで苦笑し続けるのであろう。

「男女雇用機会均等法」やよし。が、枠組みが実を伴うわけではない。
「ジェンダーフリー」ということばすら認めないと政府・地方自治体こ
ぞって公言し始めた国(日本)の民は笑っている場合ではない。「負け
犬」という言辞が原典を離れてふらふらと彷徨い乱用される社会も異様
だ。原題"I Don't Know How She Does It"(「彼女は一体どうやってい
るのか見当も付かない」)から懸け離れた本書の邦題は、そんな我が国
の状況に斬り込んでいく。この勝負、本当の相手は誰なのか。答は小説
の中ではなく、実戦の場にあるはずだ。

■翻訳読書ノート26                                      北田敬子

「啓蟄を待ちながら」

寒さ厳しい立春に、待たれるのは啓蟄。今年はこの日に東京都文京区千
駄木でファーブル昆虫館「虫の詩人の館」がオープンするという。完訳
『ファーブル昆虫記 第一巻上・下』(ジャン=アンリ・ファーブル著、
奥本大三郎訳、集英社刊 2005)の美装ハードカバー表紙を撫でながら
私も楽しみにしている。贅沢な本だ。訳者は現地取材を重ね、専属の
挿絵画家と写真家を確保し、大きな活字で読者の便宜に応じ、悠々と
全十巻20分冊の刊行を目指す。『すばる』連載を18年続けた上での満を
持しての個人全訳(むろん世界初)である。「虫の詩人の館」が訳者の
自宅敷地に開かれると聞いては、原作者と訳者の深い因縁にまで思いを
馳せぬわけにはいかない。

鳴り物入りの刊行であるから書評も相次ぐ。中には「なぜ今『昆虫記』
なのか」と、ダーウィニズムとファーブルの対決を説き、現代の動物
行動学進展の見地からファーブルの頑迷さをあらためて指摘する書評子
もいる。それでも本書の今日的意義を認め、詳細な訳注を含めた翻訳を
称えるものが殆どである。あらゆる世代に供し、しかも「声に出して
読んで面白い」というこなれた日本語は確かに得がたいものである。
狩人蜂や幼虫、また食客たちの行動描写に「ここを先途とばかり」
「不倶戴天の敵」「鎧袖一触」などという表現が自在に繰り出されると
流石に笑いがこみ上げてくる。講談調と言ってよいかもしれない。日本
語に叙情と勢いがある。自然観察の書としては破格である。それはとり
もなおさず原作の味わいなのだろう。

小学生の頃ファーブルと出会い、昆虫採集に熱中した訳者と同様の道を
辿った旧少年たちから、本書は絶大な支持を得ていると思われる。IT革
命にも市場経済の激動にも真似の出来ないホンモノの興奮がここにはあ
ると。かつて虫愛ずる姫君であったためしのない私でさえ、読み終える
までどこに行くにもずっしり重い本書を手放すことはできなかった。
昆虫とわれらは地球を共有していると実感させる点でも、やはり本書は
きわめて今日的意義を持っている。
 ■  翻訳読書ノート25 「数学世界への招待状」
                             北田敬子

新潮クレスト・ブックスの中に『素数の音楽』(マーカス・デュ・ソー
トイ著 富永 星 訳 新潮社 2005)を見つけた時、これは海外の翻訳小説
の為のシリーズだと思いこんでいたので驚いた。帯の「小川洋子さん、
絶賛」というコピーを見て、「なるほど、『博士の愛した数式』効果か」、
とある程度納得がいった。このシリーズに本書が含められた意図がよく
分かったのは読了してからだと思う。素数の謎をめぐる数学者たちの悪
戦苦闘と、栄光を求める人間模様はそれだけでも十分スリリングなドラ
マだが、実はそのドラマの主役は「素数」そのものであることが明らか
になるからだ。

未解決の難問「リーマン予測」について一般読者がこの本を一冊読んで
理解できることはごく僅かだろう。ただ、読みながら出会うフェルマー、
オイラー、ガウス、アーベル、ハーディー、ヒルベルト、ゲーデル等々
の名に親しみ、パリ、ゲッティンゲン、プリンストンなどの大学や研究
所の内部を覗き、ギリシア時代以来連綿と続いてヨーロッパ近代に繋がり、
アメリカで20世紀に隆盛を誇る数学(数論)の歴史を辿るうちに、数学
は決して単なる「秘儀」でないことは分かる。素数の美しさや不思議さ
に触れる読者もいるにちがいない。また、ラマヌジャンというインド出
身の数学者がケンブリッジで文化衝突に苦しみ、早世する下りには憤り
も感じるはずだ。やがて素数がインターネット時代の暗号技術に絶大な
威力を発揮するようになった現代社会を見せつけられれば、我々が依っ
て立つ足許に素数が潜んでいることを知って、また新たな興味をかき立
てられることは間違いない。

学校で難解な計算を強いられて数学嫌いになる人は数知れない。それな
のに、他の自然科学分野に比べて数学の啓蒙書は極端に少なかった。数
学者たちも語る言葉を持たなかった。だが、崇高さも愚かしさもある人
間の学問としての数学がこのように語られるなら、数学への頑なな偏見
は和らぐだろう。随所に「訳注」を施した富永星氏のリズミカルで簡潔
な訳文に、本書の魅力が支えられていることを強調したい。(実は、
25年間数学者と暮らしてきた私にも初めて分かったことがたくさんある。)
■ 翻訳読書ノート24 「蛙三昧」

百匹では収まらない蛙(かわず)が揃った。「蛙コンペ」とも言うべき
宴に集うのは、東西の文人・識者。但し御大芭蕉はいない。何故ならこ
この蛙は英語版。120ページ余りの小型ペーパーバック"One Hundred
Frogs" (ed. Hiroaki Sato, illustrations by J.C. Brown, Inklings
edition, Weatherhill1995)をパラパラめくると、水墨画の蛙が池の畔に
とまるトンボめがけて大きくジャンプし、そのまま水中へポチャンと飛
び込む仕掛けになっているのも愉快だ。「古池や蛙飛び込む水の音」は
訳者それぞれの個性を映し出す。

ニューヨーク在住の編者の元へ約二十通りの英訳「蛙句」が送られてきて、
「訳者を当ててご覧なさい」と挑まれて以来、Sato氏の「蛙集め」が始
まったという。文献目録付きで寄せられた研究論文収録の五十編を含め、
本書第一部をなす第一版が出来たのが1981年のこと。それ以降も蒐集は
続き、Sato氏のリクエストによって書かれた新作を加えたものが第二部
をなす。翻訳年代順に並べられた第一部の筆頭を飾るのは子規であり、
Lafcadio Hearnがそれに続く。新渡戸稲造は二編、「飛び込む」は"took
a sudden plunge"から"jumps in--"に変化している。実直な訳に止まら
ずリマリック形式、ソネット形式や数字の7の形をした文字配置で書かれ
たものなど、思いがけないひねりが加えられたものもある。第二部では
変奏は更に自由度を増し、William Matherson のように3ページに及ぶ散
文(男女の会話からなる蛙句の謎解き)といった解釈・批評をも許容する。
いや豪勢なものです、蛙君。

語に解体すれば僅か六つか七つの要素が、訳者によってこれほど多様な
詩句に変化するのは圧巻だ。「池」だけでも mere, pond, lake, pool,
depth, bog(ge) . . .これに「古」がくっつくと生まれるバリエーショ
ンの多さ!改行の仕方、感嘆符のあるなし、また擬音を入れるかどうか
の判断など、微細な違いが興味深い。ふと思う。俳句は確かに禅の公案
のようだと。(訳者の中には鈴木大拙もいる。)頭でひねくり回しても
本懐は得られない。直覚が動くかどうか。伝えようとして伝わるものば
かりではない。しかし、仏教も日本文化やその精神もことばを拒絶して
はいられない。

ついで手を伸ばした"Haiku"「俳句」(選・文 高橋睦郎  写真 井上博道
アートディレクション 高岡一弥  翻訳 宮下惠美子  ピエ・ブックス
2003)を読み且つ眺めながら、このわびさびは日本人にしか分かるまい
などという時代は疾うに過ぎたのを感じる。放っておけば日本人にすら
分からなくなっている。だが、俳句を好む現代の若者たちは多い。(ネ
ット俳句サイトには人気があり、「俳句甲子園」は映画にもなっている。)
ことばは伝承に発展にどこまでも食い下がるしかない。蛙の宴は始まっ
たばかりだ。
■翻訳読書ノート23

「母性をめぐる知の饗宴」

サラ・ブラファー・ハーディー著『マザー・ネイチャー』「母親」は
いかにヒトを進化させたか(塩原通緒訳 早川書房 2005)(原題
Mother  Nature, A History of Mothers, Infants, and Natural
Selection)
は、 上・下二巻、本文700ページに加えて原註と参考文献合計173ペー
ジに及ぶ大著である。
原作は1999年出版とのこと。おそらく翻訳の仕事にはさまざまな周辺
作業も含めて5年余りの歳月を要したと想像できる。動物行動学、畜産
学、人類学、認知心理学・神経科学、発達心理学、内分泌学と行動、
昆虫学、語源学、遺伝学、爬虫類学、歴史学、科学史、医学、栄養学、
鳥類学、古人類学、霊長類学、そして文学、哲学、宗教に至るまで古
今東西の多種多様なジャンルを広域的、多面的に渉猟した原文の豊穣
を十全に再現する為に、どれほどの努力があったことかと先ずは感嘆
の念を禁じ得ない。

動物の「母性」なるものの本質を問うと、このような膨大な議論を展
開する力業が必要なのかとあらためて認識させられ、かつその議論の
中に込められた果てしない生命の戦いに圧倒される。オスとメス、メ
ス同士、親と子、親類縁者、支配者と被支配者、周辺サポーター等々
を巻き込んで、生まれ出た個々の命は生き延びられるかどうかしのぎ
を削る。(いや、生まれ出でるについての戦いが先ずある。)膨大な
事例の中で、例えば生まれ落ちるそばから乳母の元に送られた近代ヨ
ーロッパの金持ちの家の赤ん坊たち、孤児院送りになって死んだ夥し
い数の貧者の子どもたち、授乳せずにすぐ次の妊娠を招いてまたして
も子どもを手放す母親たち、といった「文明」の裏側で繰り返されて
いた母子受難の歴史に光が当てられる。子捨て、子殺しは育児の望み
のないところでいくらでも起こりうることの幾多の例証。狩猟民族と
現代的都市生活者に共に見られる「代理母」の存在。霊長類の一種と
しての人間の生命連鎖のあり方が、「母親」という視点から徹底検証
される。

博覧強記の叙述に負けないのが数百枚に及ぶ図版の魅力である。但し、
中には菅笠を被り和服の胸を開いて授乳する日本の農婦といった、既
に地上から姿を消したイメージがまことしやかに掲載されているとい
う不思議もあるが、文字だけでは理解できない範囲にまで読者を誘う
仕掛けが素晴らしい。「ダーウィニアン・フェミニズム」ということ
ばを初めて知った。 著者自らの「母性」を基盤にする本書には、女性
科学者の本領が発揮さ れている。深い癒しに満ちた子守歌で幕を閉じ
るところに救いを感じた。
■ 翻訳読書ノート22                 北田 敬子

「霧のなかへ、私も」

これまで迂闊にも PTSD が Posttraumatic Stress Disorder(心的外傷
後ストレス障害)の略語とはっきり認識していなかった。トリイ・ヘイ
デンというベストセラー作家の本を読んだことがなかったというのも面
目ない。最新刊の『霧のなかの子--行き場を失った子どもたちの物語』
(入江真佐子訳 早川書房 2005年)で初めて出会った。

物語といってもこれはノンフィクションであり、トラウマを抱えた人々
とのセラピーを通じた関わりの記録である。この作品には彼女がアメリ
カの大都市の総合病院に勤務していた時、母親と別れた実父に誘拐され
叔父から2年間にわたって性的虐待を受け続けた9歳の少女カッサンドラ、
「選択性無言症」が疑われる4歳の少年ドレイク、脳卒中の後無言の世界
に閉じこもった82歳の女性ゲルダ、およびその家族との数ヶ月間の交渉
が書かれている。いずれも「めでたしめでたし」とはいかない複雑なケ
ースでありながら、一人のセラピスト(教師・心理学者でもある)が通
常のコミュニケーション手段としての「ことば」を持たない人々に何を
為し得たのか、為し得なかったのかが詳しく語られる。

以心伝心をコミュニケーションの最高の形と見なす日本語文化から見れ
ば、あくまでもことばによって人の心の奥に分け入ろうとする療法には
俄に受け入れがたい部分もある。だが見えない部分に光を当てるのがこ
とばの力だとすると、ヘイデンの愚直なまでの取り組みに光明を見いだ
す人々が後を絶たないのも頷ける。そして攻撃的な、虚妄の、あるいは
一見脈絡のない言語表現の彼方には必ず「家族の問題」が横たわってい
ることに、読み手は一様に慄然とした気分になるのではなかろうか。

ヒトは心の問題を避けて通れない。それは万国共通だ。心の傷、家族の
病から解放された民族はまずいない。ヘイデンの作品が多言語に翻訳さ
れ続けるのは、その痛みにつける特効薬がないことの証明かもしれない。
それにしても「トリイ・ヘイデン読書感想文コンクール」に寄せられる
作品はどんなものだろう。優秀作品が英訳されて作者の元に届けられる
のかどうか。「霧のなかへ、私も」とこの作品を我がこととして読み、
思いを書き 連ねる大勢の読者の姿が目に浮かぶ。


 ◇◇◇ For your reference ・・・・・・

◆ヘイデン,トリイ(Hayden, Torey L.)
教育心理学者
1951年5月21日、米国・モンタナ州に生まれる。
大学時代に低所得者層の未就学障害児を世話するボランティアをして
以来、教員や精神医学研究者としての学位を取得しながら、情緒障害児
教室、州立精神病院、福祉施設などで働く。それらの体験をもとにした
ノンフィクションの著作が多数ある。「シーラという子―虐待されたあ
る少女の物語」は22ケ国語に翻訳され、TV映画化された。その続編「タ
イガーと呼ばれた子―愛に飢えたある少女の物語」の他、「愛されない
子」「ひまわりの森」などもある。

      (データ提供:日外アソシエーツ 人物・文献情報 WHOPLUS)
■ 翻訳読書ノート21                 北田 敬子

「直喩としての活火山」

2004年末にスーザン・ソンタグの訃報を聞いた時、やはり癌かと胸が疼
いた。活発に行動し、状況と関わり、鋭い批評精神を表明し続けた作家
の71歳の死は早すぎる。折しもスマトラ沖地震による津波の報道合戦が
続いているところだったので、写真の持つ多義性について多くを論じた
ソンタグならどのような反応をしただろうとの思いが消せない。『他者
の苦痛へのまなざし』(みすず書房 北條文緒訳 2004年)からは、密
かにスペクタクルを期待する心情へ厳しいことばが斬り込んでくる。

一方『火山に恋して』(富山太佳夫訳 みすず書房 2001年)で、小説
家ソンタグは読者を存分に楽しませてくれる。フランス革命期のナポリ
を中心に、実在した英国公使夫妻とネルソン提督をモデルにした登場人
物は、大胆不敵な行動様式とマニアックな性癖で、過剰な情熱をいやと
いうほど披瀝する。その背景で絶えず火を噴き溶岩を溢れさせているヴ
ェスヴィオス火山は、ロマンスの隠喩ならぬ直喩だ。イギリス公使「カ
ヴァリエーレ」の蒐集と火山の偏愛、奔放な二度目の奥方の破天荒な振
る舞い、そして「英雄」の彼ら二人への執着。人々をとりまく時代の喧
噪は活火山そのものとして描かれる。ソンタグは惜しむことなく華麗に
歴史の舞台を演出し、読者を熱狂に巻き込んでしまう。むろん波瀾万丈
の物語の底には、現代史にまで及ぶ作家の冷徹な観察眼がはっきり見ひ
らかれている。

『この時代に想うテロへの眼差し』(木幡和枝訳 NTT出版 2002年)、
『良心の領界』(同 2004年)でソンタグの語る緻密で厳格に定義され
た批評のことばは、曖昧さを許容しない正確さでアメリカの紛争地帯へ
の介入と無関心を、また戦争に対して個人がとりうる立場を分析してい
く。実は対極的なものに見えて小説で示された放縦とも言えることばと、
批評のことばは乖離したものではない。どちらも沸き返る人間の情熱と
残忍さの実態を直に見据えて発せられたものであることは明瞭である。
シンポジウムでの通訳も含めた木幡、饒舌な富山の訳業は特に、ソンタ
グの本領を伝えるものと思う。今後ソンタグの仕事をめぐる内外の書が
相次ぐことだろう。

 
◇◇◇ For your reference ・・・・・・

◆スーザン ソンタグ (Susan Sontag)
   批評家;作家
   1933年1月16日ニューヨークに生まれる。
  2004年12月28日、ニューヨーク市内の病院で急性骨髄性白血病の合併
   症のため亡くなった。享年71歳。
   ユダヤ系の両親のもとに生まれたスーザンは、少女の頃から文章を書
   き、9歳で詩などを新聞にして売っていた。17歳で結婚。1951年シカゴ
   大学を卒業後、ハーバード大学で学び、'55年修士号を取得、さらにオ
   ックスフォード、パリの各大学にも留学した。
  '63年長編小説「恩人」を発表、メリット賞を受賞。'66年の評論集
  「反解釈」で評論家としてデビュー。ポピュラー音楽からフランス思想
   まで文化や芸術、社会を新鮮な切り口で解剖し、時代の寵児となった。
   以来、鋭利で挑発的な文明・文化批評を続け、現代の米国を代表する
   リベラル派知識人と称された。ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争
   などに反対する発言や、フェミニズム(女性解放運動)の論客としても
   知られた。
   一方、2000年小説「アメリカで」で全米図書賞を受賞。その他、雑誌
   編集者、教師、シナリオ作家など多種多様な肩書きを持ち、それぞれ
   の場で活躍した。他の著書に「ラディカルな意志のスタイル」、「写
   真論」、「隠喩としての病い」、「土星の徴しの下に」、「エイズと
   その隠喩」、「この時代に思う―テロへの眼差し」、「他者への苦痛
   へのまなざし」、 小説「死の装具」、「火山に恋して」、短編集「わ
   たしエトセトラ」などがある。
 
        (データ提供:日外アソシエーツ 人物・文献情報 WHO)

■ 翻訳読書ノート20

「トルコの紅に魅せられて」

和久井路子氏は『わたしの名は紅』(オルハン・パムク著 藤原書店 
2004)をトルコ語版原著から日本語に翻訳することで、16世紀初めのオ
スマン・トルコ帝国を直接我が国に届けた。原作者パムクは1952年生ま
れの現代作家である。彼が題材とした当時の細密画師たちの直面する東
と西の文化の出会い、宮廷と市井に繰り広げられる人間社会の詳細、ま
た男性と女性、大人と子ども、親子関係など、多様な要素に沸き返るこ
の作品が、翻訳者自身の努力で我が国に紹介されるに至った経緯は特筆
に値する。

『わたしの名は紅』は小説ではある。しかし、物語の手法は類い希なも
のだ。全59章には名人を含め幾人かの主要な細密画師、死者、殺人者、
画師エニシテの娘シェキュレ、彼女の二度目の夫となる画師カラなどの
人物のみならず、犬、木、馬、金貨など画材となるもの、さらには死、
「紅」、悪魔など細密画師たちに大きな影響を与える概念、精神といっ
たものまでもが「語り手」となって読者の前に登場する。あたかも、西
洋絵画の「遠近法」から自由であった古のトルコの細密画がそうである
ように、独特の位置関係を与えられた各要素はそれぞれに語る声を持っ
ている。一見バラバラでありながら、互いが互いを照らしあい全体とし
て一つの世界を描き出す。幼馴染みシェキュレとカラの抑制と功利と情
欲の交差する婚姻譚が、多声の重なりによっていや増しに個人の運命を
超えたものへと変化していくダイナミズムは、西欧的近・現代小説には
ついぞ見かけぬものであろう。個人の署名、個人のスタイルを超えた芸
術が確かにあった時代とその崩壊を、幾多の声が説いていく。

世界史の年表に閉じこめられない現在に至るトルコの人々の価値観、生
活、伝統作法などを一冊の書物がどれほど豊かに伝えうるか、『わたし
の名は紅』は端無くも示しているように思う。百科全書的な小説、と言
うべきかもしれない。不可思議なものと捉えられがちなイスラム世界へ
の扉を、この小説の翻訳が一つ確かに開いたと私は思う。

■ 翻訳読書ノート19

「生きて証しすること」

頑迷な因習に苦しむ人々はどこにでもいる。皇太子妃が世継ぎとなる男
子を出産しないと責められるのは、今に残るこの国の因習の証と言えよう。
性別による足枷は重い。「負け犬」「勝ち犬」などと軽妙なスタンスで
人々の固定観念を揺さぶる言説が世に踊る一方、因習と自我との葛藤に
悩む人々は後を絶たない。

白い仮面の女性が日本のマスコミに登場したとき、奇異の目は向けられ
てもどれほどの共鳴と理解が呼び起こされたか不明だ。しかし『生きな
がら火に焼かれて』(スアド著 松本百合子訳 ソニーマガジンズ 2004)
には、因習が無力な女・子どもを傷つけ殺し続けている現状が克明に記
録されている。スアドという仮名の語り手と、彼女が家族の手で「名誉
の殺人」の名の下に焼き殺されかけたところを救い出したスイスの人権
擁護組織SURGIRの活動家ジャックリーヌの証言は、いわゆる「文明国」
に土俗世界の深部を突きつける。未婚女性の性交渉は死に値し、家父長・
男兄弟の家庭内暴力は公認されている。孕んだ娘を義兄が殺すことに両
親は同意する。その一方、スアドは父に抑圧される実母が愛人と密会す
る現場を目撃してもいる。理の通らない世界で死の淵までいったスアド
が、極限状態で出産した赤ん坊と共にスイスに搬送されてから心身の蘇
生に要した歳月--この本を出版することができるようになったときまで
--は20年近くに及ぶ。

「人権」「人格」という概念は特権的な国々の幻想かもしれない。ひと
たび戦争となればそんなものなど敵には存在しなくなる。はじめ、スア
ドの生まれ故郷シスヨルダンという地名を私は認識できなかった。それ
がパレスチナ人とユダヤ人が対峙するヨルダン川西岸を指すと知ったと
き、故アラファトの顔が脳裏を過ぎった。大きな戦の陰には無数の小さ
な戦が続いている。それは我々とは無縁の彼岸の火事なのだろうか。中
東からスイスへ、そして日本へ、戦を生き延びた者の声は鋭く言語の壁
を越えて、現存する力なき者の受難を伝える。此岸にも呼応する痛みや
苦しみのないわけがない。
■ 翻訳読書ノート18                  北田敬子

「若い旅路」

若者の無鉄砲な旅には危うさと可能性が共存している。一歩間違えば落
命やむなしだが、幸運が重なればとんでもないところまで行ける。「幸
運」は旅行者自身の行動力と人間的な魅力が引き寄せるものであること
も見逃せない。映画『モーターサイクル・ダイアリーズ』公開に合わせ
て「増補新版」の出たエルネスト・チェ・ゲバラ著『モーターサイクル
南米旅行日記』(棚橋加奈江訳 現代企画室 2004)と、旅の同行者で
あるアルベルト・グラナード著『トラベリング・ウィズ・ゲバラ』(池
谷津代訳 学習研究社 2004)を併せて読むとそのことが実感できる。

キューバ革命の雄にして反政府活動支援に潜入したボリビアで処刑され
たチェ・ゲバラは、ひどい喘息持ちの医学生だったことがこの二書に余
さず描かれている。ゲバラとグラナードが1951年から52年にかけてアル
ゼンチンのブエノス・アイレスからベネズエラのカラカスまで、最初は
中古オートバイで、後はトラック・船舶・列車・筏・丸木船・水上飛行
機を乗り継いでヒッチハイクして駆け抜ける様子は、南米大陸縦断とい
うダイナミックな背景に知的好奇心と大らかな人間性の裏付けを得て、
類い希な青春旅行記をなす。旅のあとアレルギーについての論文を書い
て医学部を卒業したゲバラ。ベネズエラに留まりハンセン病治療・研究
の専門家としての道を歩み始めるグラナード。二人は特権性を十分自覚
しながら南米奥地の人々の暮らしや自然を科学者ならではの眼差しで観
察している。

二人の旅が異なる個性の相互補完の好例を示すように、この二冊も同じ
役目を果たす。24歳のゲバラは洞察・直感・行動力に優れ、30歳のグラ
ナードは実務・調整・緻密さに力を発揮する。二人とも陽気なラテン気
質の好漢で名サッカープレイヤーであることなど、両書を併読すること
でその全体像が浮かび上がってくる。若書きの新鮮さは切ないほどだ。
映像の魅力に触発され、この二書を手がかりに、世界の仕組みに開眼し
ていく日本の若者たちが現れるのではないだろうか。少し分かりにくい
ところもある棚橋訳ではあるが、ゲバラの若さは何より眩しい。


■ 翻訳読書ノート17                  北田敬子

「ティーンズのために」

人の感受性が最も強い時期(多くはティーンエイジャー)の少年少女が
主人公の作品は「ヤング・アダルト小説」とか、「ジュブナイル小説」
と呼ばれている。
すっかりご無沙汰していたそのジャンルのものを最近立て続けに読んで
しまった。イギリス人作家アレックス・シアラーと、日本語翻訳者金原
端人コンビの魅力的な本である。本物のチョコレート色をした『チョコ
レート・アンダーグラウンド』(求龍堂 2004)、プラスチックカバー
が少女の影を覆う『13ヶ月と13週と13日と満月の夜』(同 2003)、そし
て底なしの青空色の『青空のむこう』(同 2002)。どれも胸を突く美し
い装丁で作られている。手に取ると本が特別な宝物のように思えてくる。
この中に詰まっているものはなんだろう、と。

『青空』は交通事故死した少年幽霊が家族に決別を言いにあの世から戻
ってくる話。『13ヶ月』は魔女に体を乗っ取られた少女たちの身体奪回
奮闘物語。そして『チョコレート』はチョコレート禁止令を出した独裁
政党打倒の解放闘争談。荒唐無稽といえばそれまでだけれど、一旦読み
始めたら止められない筋立てに愛すべきキャラクターが活躍する。奇跡
も魔法もありのファンタジックな要素は色濃いが、細部構築はイギリス
人らしいリアリティーに富んでいる。大人でも思わず引き込まれてしま
う。ティーンズならおそらくもっと。こんな世界に心を遊ばせられる時
間はとても贅沢だ。ユーモアとフェアネスの精神が全編に漲っている。

現世では子どもたちの受難が続く。テロリストは子どもたちを学校の体
育館で殺戮し、戦火に逃げまどう子ども、難民となる子どもは絶えず、
一見平和なこの国でも無惨な殺人の犠牲になる子が如何に多いことか。
彼らの無念は埋もれたままだ。そんな世の中に、人間の尊厳をさり気な
く面白く誠実に語ることばがあっていい。国境おかまいなしに、世界に
行き渡るといい。若い心の襞をよく理解する翻訳者に感嘆。年若い息女
の文学賞受賞譚ばかりが一時話題を独占したが、この父の仕事を見よ。

■ 翻訳読書ノート16                  北田敬子
「象徴の迷宮」

『ダ・ヴィンチ・コード』上・下(ダン・ブラウン著 越前敏弥訳 角川
書店 2004)に捕らえられて数日を過ごした。読んでいる最中は先を知り
たいという衝動に駆られて他のことは手に付かず、読み終えると角川書
店の専用ホームページ、著者のオフィシャルサイト
(http://www.danbrown.com/)の隅々までを閲覧し、舞台となるルーブル
美術館、ウェストミンスター寺院、ロスリン聖堂、そしてダ・ヴィンチ
の作品画像を飽かず眺め、しばし「ダ・ヴィンチ・フリーク」となって
迷宮をさまよい歩いたと言うほかない。

確かにこれは魅惑的な本だ。キリスト教に詳しくない人間も充分ミステ
リーとして楽しむことは出来るが、もし僅かでもキリスト教に通じ、キ
リスト教文化の歴史に関心を持つ読者であれば、何世紀にも亘って人々
が「信じ込まされてきた」神秘解明という迫真のスリルを味わうことに
なるだろう。その意味では「聖杯」の象徴するものは何かという問いも、
「聖杯探求」の情熱も読み手によって非常に異なるものとなる。

正直なところ、私は象徴の謎解きと追いつ追われつする登場人物たちの
物語に夢中になりながら、彼らの「動揺・驚嘆・感激」に同調できない
冷めたところがあるのを自覚していた。物語の最後に至っても遂に満足
すべきカタルシスを経験したとは言い難いのである。周到な設定とカト
リック教会をめぐる博覧強記の細部構築に圧倒されながらも、人間心理
の複雑さが同じほど書き込まれているとは思えなかった。狂言回しとな
るハーヴァード大学宗教象徴学教授ロバート・ラングドンよりは異形の
殺人者シラスに惹かれたほどだ。

それでも尚、小説という器の可能性に私は目を見張る。如何に優れたも
のであれ象徴解読の学術論文を世界中の一千万人にも及ぶ人々が読むだ
ろうか。物語の中に溶かし込まれた時、キリスト教徒も異教徒も改めて
神秘の前に引き寄せられるとしたら、ことばの提示方法と人心掌握の謎
の幾ばくかが『ダ・ヴィンチ・コード』から見えてくるように思えてな
らない。原書出版から一年余りで日本語訳が出せるその素早さにも敬意
を表しつつ。
■ 翻訳読書ノート15                  北田敬子

「出口を求めて」

桐野夏生の『OUT』は1997年の原作出版から6年目に英語版“OUT”
(Stephen Snyder 訳 講談社インターナショナル 2003年)が出て、
2004年度米国のエドガー賞ノミネート作品として再び脚光を浴びる
こととなった。この戦慄すべき作品は英語によくなじむ。

果たしてどれほどの数の英語版読者がいるのか今は分からない。受
賞を逃したことを残念がる記事もあちこちで読んだ。しかし、桐野
のスタイルは言語の壁をものともしないだろう。このような形で日
本の女の姿が世界に披露されることに眉をひそめる向きがあるかも
知れないが、“OUT”に漲るパワーは凄まじい。深夜労働で製造され
るコンビニ弁当、夜勤を引き受ける女たち、外国人労働者、サラ金
業者、歌舞伎町に群がる中国人男女、ヤクザ、渋谷界隈を浮遊する
援交女子高生たち、そしてなにより東京西郊の住宅地に潜行する女
たちの「死体処理ビジネス」という神をも恐れぬ奇想。彼ら登場人
物をつなぐ「金」と「孤独」。メガロポリス・トーキョーの負の部
分がこれでもかと、それこそ幕の内弁当のように詰まっている。

小説は時代も土地も映す鏡だ。英語版を読みながらその巧みさに舌
を巻いた。東京西郊には、茫漠とした平野の林や田畑が急速に宅地
化され、都市で働く人々の住まいを供給しつつ互いの結びつきはい
かにも希薄であるようなうらさびしい風景がある。一歩間違えば見
かけの繁栄から脱落することはいとも容易な社会の中で、何ら経済
的基盤も精神的拠り所も持たぬ女たちが出口を求めて足掻いている。
物語の主人公 Masako Katori が挑む孤独な戦いは非常にローカルな
ものでありながら、同時にユニバーサルな現代人の姿を体現しても
いる。

Stephen Snyder は村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』、柳美
里の『ゴールド・ラッシュ』の翻訳者でもある。現代日本文学に達
意の翻訳者が存在することの幸いを思った。内にこもることを止め
て外へ向かう時、従来の「純文学」と「大衆文学」などという括りか
ら日本の小説が解き放たれるるのではないかという期待を強く抱かせ
る作品に出会った気がしている。

■ 翻訳読書ノート14                  北田敬子

「日本と世界の距離」

村上龍の『イン ザ・ミソスープ』英文版(ラルフ・マッカーシー訳 講談
社インターナショナル 2003)を読んだ。今夏の映画公開を前に新装(日本
語)版が店頭を賑わす『69 sixty-nine』で大いに笑った後だった。切なく
も輝かしい1969年の佐世保から、一気に30年後の新宿歌舞伎町の夜へ。
長崎弁から無国籍英語へ。片や<笑い>、片や<サイコ・スリラー>と
手法は違っても、作者が読み手を惹きつける強烈な力業は通底している。

海外の読者にはどのように受け止められているのかネット検索してみると
『イン ザ・ミソスープ』英文版は世界中の1224作品を批評するサイト、
“the Complete Review”(http://www.complete-review.com/main/main.html)
では「発想の妙はあるが筋立ては荒唐無稽」として酷評(ランクB-)されて
いる。またそこから辿れるいくつかの新聞書評欄では賛否相半ばしている
のが分かる。いずれも従来の歴史・伝統を色濃く伝える日本作品にはない
世相・風俗への大胆な切り込みには快哉を送りつつ、提示されるビジョン
がニヒルで空疎だと失望を述べてもいる。同姓だが無縁のハルキ・ムラカ
ミとリュウが如何に異なるかを解説するものもある。全面的賞賛にはほど
遠くとも、紛れもない同時代の作品として率直な反応を引き起こしている
ことは確かだ。

『イン ザ・ミソスープ』に描かれる「内にこもる日本」がFrankという他
者に象徴される「外気」に触れた時の脆弱さや、Kenji という言語・文化
の仲介者を通して検証される様を英語でたどると、この汚辱の中にわが国
の現実がよく凝縮されていると感じる。英語版には翻訳不可能な日本語が
多数混じる。Bon-no(煩悩)論争を始め、日本語をそのままに投げつける
不敵さは、他国の読者に相当不可解なインパクトを与えるのではないだろ
うか。ただ「味噌汁」のなんたるかも知らない人々には、この題名の含意
が伝わるかどうか怪しい。しかしいつもながら現実世界での驚愕すべき事
件の数々が既に村上作品の中にあったことを思うにつけ、そもそも歌舞伎
町に日本の表象を読み解こうとするこの作家には日本と世界の距離を超え
ていく軽快さを感じる。海外での忌憚ない批評に晒されることから日本の
小説が鍛えられるだろうことは間違いない。


■ 翻訳読書ノート13                  北田敬子

「語る人、聴く人」

読むことに加えて読書に「聴く」楽しみが加わるとどうなるだろう。一冊
で二度楽しい、いや「三倍楽しむ」を謳い文句にした本『ナイン・インタ
ビューズ 柴田元幸と九人の作家たち』(柴田元幸訳・編 アルク 2004
年)では、現代作家のインタビューを英語で読み、翻訳と解説を日本語で
読み、おまけに作家と翻訳者の対談をCDで聴ける。多産かつ気鋭の翻訳家
柴田元幸は、自ら手がけた作家たちを訪ね、作品に関する質問を繰り出し、
彼らをして存分に語らしめる。九人の中には、漫画家アート・スピーゲル
マンもいれば、イギリスから来日したカズオ・イシグロもいるし、電話イ
ンタビューで参加するポール・オースターもいる。(但し九人目の村上春
樹だけは日本語インタビューなので声は聴けない。)

この本を非常に面白い試みだと思う理由は、翻訳家の積極姿勢にある。彼
はいわば影武者の装束をかなぐり捨てて読者の前に飛び出し、「声」をもっ
て問いかける一人の批評家ともなる。対訳を供するのは仕事場を公開する
に等しい。以前から『翻訳夜話』(文春新書 2000)でも柴田の翻訳に対す
る自負は公にされてきたが、この度はさらに一歩進んだ。しかしながら翻訳
者を介してのみ異国語の世界に認知されうる作家たちに、柴田はどこまでも
「聴き手」の姿勢を崩さない。それはあくまでも「仲介者」であることを引
き受ける者の語り口だ。彼の声は一般読者に向かう時教師のトーンを帯び、
実作者に向かう時弟子のトーンを帯びる。

この本を傍らに、ポール・オースターのエッセイ集『トゥルー・ストーリー
ズ』(柴田元幸訳 新潮社 2004)を開くと翻訳家は姿を消し、そこには希
代のストーリーテラーが現れる。「信じられないような本当の話」を語るオ
ースターは柴田の声がなくては存在しないのに柴田の声はオースターに明け
渡される。われわれが聞くのは果たして誰の声なのか分からないほど透明に
なった時、柴田の本領が最高に発揮されていると言う他はない。それが翻訳
者の存在証明になる。
■ 翻訳読書ノート12                  北田敬子

「純愛」という衝撃

イラクでの戦争にじわじわと深く関わり始めた日本が「邦人誘拐」「解
放」と一喜一憂する一方で、世界情勢とは関わりのない幻の王国が多く
の人々の意識の中に築かれている。玉座に君臨するのは「純愛」と呼ば
れる感傷である。バイオレンスとも、セックスともドラッグとも無縁の
領土だ。

ベストセラーは揶揄の対象にもなり、驚異でもある。『冬のソナタ(上・
下)』(キム・ウニ/ユン・ウンギョン著 宮本尚寛訳 NHK出版 第14刷
2004)は韓国のテレビ番組の所謂「ノベライゼーション」だから、余韻を
楽しみたい視聴者向けの出版だったに違いない。予め与えられた登場人物
のイメージ、周知の展開、解かれた後の謎。それでも求められ続ける書籍
の魅力とは何か。映像が書きことばに定着する時、読者は虚構への本格的
な参入を許される。改めて想像力が刺激され、幾度でも新たな感情移入の
機会が与えられる。韓国産の物語でありながら、この作品には土着的風俗
は殆ど無いに等しい。いつ、どこの、誰に起こっても構わない初恋談義の
プロトタイプである。

揃って1970年代生まれの両作者と訳者が、彼らより10歳も20歳も上の世代
からごく若い世代までを虜にしている。おそらくその殆どが女性である読
者層は、第二次世界大戦以前の日本と韓国の歴史的経緯の実情を知らず、
したがってかつての偏見からも自由である。「無垢」(ないし「無知」)
が「純愛」に飛びつく--これこそ「初恋」のエッセンスだろう。愛の辛酸
をなめるのはその後の過程にある。初恋を手放さないことは甘美だが苦悩
の始まりでもあることをこの作品自身がよく示している。主人公たちの親
世代の「過ち」が子ども世代に及び、その克服が仄めかされるというプロ
ットも実に示唆的ではある。非西欧的、儒教的、禁欲的価値観が現代の日
本に与えるインパクトは意外に強かった。韓国語からの翻訳作品がこれか
ら日本の出版市場に続々と「侵出」してくることは想像に難くない。
■ 翻訳読書ノート11                 北田 敬子

「存在の重力」

90年代初めミラン・クンデラの作品が次々に翻訳出版された頃、私は
片端から買い込んで書棚に収めそのまま10年以上経ってしまった。今
初めて読むクンデラの魅力に、これまでの空白を後悔している。東京
オリンピックの「名花」と謳われた体操選手ベラ・チャスラフスカが
私の知る唯一のチェコスロバキア人の名だったこと、彼女が90年代に
再来日した時の加齢した、しかし相変わらず高嶺の花の雰囲気を漂わ
せていた様子が、クンデラの作品を読み進むうち思い出されてならな
い。チェコとスロバキアに分かれた国々について殆ど何も知らないで
きたことに愕然としながらも。

クンデラは心と身体、体制と個人、嘘と真などの相克と不条理を飄々
と描き出す。「キッチュ(俗悪)なもの」が、短編集『微笑を誘う愛
の物語』(千野栄一・沼野充義・西永良成訳 集英社 1992)にも、
『冗談』(関根日出男・中村 孟 共訳 みすず書房 1992)にも、『存
在の耐えられない軽さ』(千野栄一訳 集英社 1993)にもふんだんに
出てくる。クンデラを読んでいると「人間の命は地球よりも重い」と
いった常套句が消し飛び、「軽さ」が前面に躍り出てくるのに気付く。
けれどもそれが単なる軽佻浮薄な弛緩した笑いとは別物の、重さの陰
画としての軽さであると念を押すには及ぶまい。ヨーロッパの歴史
が産んだ恐るべき軽さなのだと。

クンデラの洗練された技巧が、底知れぬ闇の奥から痛ましくも滑稽な
人間の本性をたぐり寄せるところを私は驚嘆を持って見つめ、同時に
訳者たちがチェコ語から日本語へテキストを生まれ変わらせる妙技に
も驚嘆する。技がそこに「存在」することすら意識させぬ事実と共に。
20世紀から引き継いだ戦火の数々が今世紀に持ち越され、いまだに燃
え続けている世界を小説はどのように書き留めうるのか、クンデラが
示すものは計り知れない。日本語からチェコ語へという逆のコースを
たどるものがあるなら、その重さ・軽さは如何ばかりかと想像してい
る。


***** For your reference *****
クンデラ, ミラン (Kundera, Milan)
 フランス国籍、詩人;小説家;劇作家
 1929年4月1日生、チェコスロバキア・モラビア地方ブルノ出生
 ヤナーチェク音楽院;プラハ芸術大学映画科〔'52年〕卒
 ヤナーチェク音楽院の院長を父として生まれる。幼時からピアノを習
 い、のちに作曲も学ぶ。長じてプラハのFAMU(映画大学)に学び、卒業
 後同大で美学、文学史などを講ずる。1953年第1詩集「人間、この広き
 庭」を出版。'55年に詩集「Poslednim´aj(最後の5月)」を出し本格的
 デビュー。
 '60年代に散文作家に転身、'67年の長編「Zert(冗談)」が高い評価を
 受け、各国語に翻訳されてクンデラの国際的知名度を高めた。'60年代
 の民主化運動に参加し、いわゆる〈プラハの春〉には作家同盟の事務
 局長をつとめる。運動の挫折後フサーク政権に批判的だった為、'70年
 よりしばらく作品の発表を禁じられていたが、この間に完成した長編
 第2作「Zivot je jinde(生は彼方に)」('72年)は'73年仏訳されてメデ
 ィシス賞を受賞した。'75年フランスへ亡命し、レンヌ大学客員教授に。
 '79年チェコスロバキア市民権剥奪。'80年社会科学高等研究院教授、
 '81年フランスに帰化。'89年チェコのビロード革命後、母国での出版
 も許されたが、その後もフランスで作品を発表。他の著書に短編集
「微笑を誘う愛の物語」('70年)、長編「別れのワルツ」(仏訳'76年)、
「笑いと忘却の書」(仏語版'79年)、「不滅」(仏語版'90年)やフランス
 で映画化された「存在の耐えられない軽さ」(仏語版'84年)、詩集
「モノローブ」、戯曲「鍵の所有者」、評論「小説の精神」などがある

             <データ提供:日外アソシエーツ WHO>
         http://www.nichigai.co.jp/database/index.html

『存在の耐えられない軽さ』
 ミラン・クンデラ著;千野栄一訳
 原書名: NESNESITELNA LEHKOST BYTI〈Milan Kundera〉
 本書はチェコ出身の現代ヨーロッパ最大の作家ミラン・クンデラが、
 パリ亡命時代に発表、たちまち全世界を興奮の渦に巻き込んだ、衝
 撃的傑作。「プラハの春」とその凋落の時代を背景に、ドン・ファ
 ンで優秀な外科医トマーシュと田舎娘テレザ、奔放な画家サビナが
 辿る、愛の悲劇―。たった一回限りの人生の、かぎりない軽さは、
 本当に耐えがたいのだろうか?甘美にして哀切。究極の恋愛小説。

『微笑を誘う愛の物語』
 ミラン・クンデラ著;千野栄一;沼野充義;西永良成訳
 原書名: RISIBLES AMOURS〈Milan Kundera〉
 ほんの冗談のつもりで始めたことによって、回り中の人間から批判さ
 れる皮肉屋「誰も笑いはしない」。中年男の二人組の女漁りの意外な
 顛末「永遠の憧れの黄金のリンゴ」。年上の女との一度だけの逢瀬と
 十五年後の巡り合い「年老いた死者は若い死者に場所を譲ること」。
 人生の機微、いたずらな運命、愛の皮肉…。小説のマジシャン、クン
 デラが、巧妙にそしてエロチックに描き出す、ちょっとユーモラスで
 ちょっと苦い7つの愛の物語。クンデラ文学の精華を集大成した、唯
 一の短編集。

           <データ提供:日外アソシエーツ BOOKPLUS>
          http://www.nichigai.co.jp/database/index.html

■ 翻訳読書ノート10                 北田 敬子

「彼女の物語」

歴史は多くの場合、文人、武人、政治家、科学者、芸術家などの別を問
わず、男性の視点から記録されてきた。彼の物語(his story)、故にヒス
トリー(history)として。ここにとびきり活きのいい女の物語が登場した。
『リビング・ヒストリー ヒラリー・ロダム・クリントン自伝』(酒井
洋子訳・早川書房 2003)である。彼女はあくまでも彼女個人が体験した、
アメリカ合衆国大統領夫人(ファーストレディ)という「象徴的役割」
を担うに至る道のりと、その実態と、そこから開けた未来への展望をこ
の一冊の本の中に存分に書き込んでいる。

これはニューヨーク州選出の上院議員となった、アメリカの一政治家の
主観的な自己アピールだろうか。剛胆なアメリカ人の自己正当化と自画
自賛の書だろうか。いや、そうではないと思う。夫ビル・クリントンが
ホワイトハウス実習生モニカ・ルゥィンスキーとの間に「不適切な関係」
を結んだとして弾劾裁判にかけられた時の状況をヒラリーは「妻として
はビルを絞め殺してやりたかった。が、彼はわたしの夫というだけでな
く、わたしの大統領であり、何よりも、彼はわたしが続けて支援したい
と思うようなアメリカと世界の指導者だった(p.649)」と表現する。
このような物言いに辟易するとしても、大らかな笑いと共に惹きつけら
れるとしても、この物語の精華はきわめて開放的な女性の率直で忌憚な
い叙述にあることだけは間違いない。現代の世界にアメリカがどう関与
するか、アメリカ国内はどのような状況にあるか、彼女は内側から事細
かに語る。

大統領を支える役割を任期満了で終え、これから独自のキャリアを積む
というタフな女性が二十一世紀に何をなし得るか。「発展途上国」「産
業先進国」の別なく衆目の的であり続けるヒラリー・ロダム・クリント
ンの声を、「訳者は役者だ」と言い切る酒井洋子は生き生きと日本の読
者に届けた。目先の好悪にとらわれず、先ず人間を見よと彼女たちに焚
きつけられた気がする。
■ 翻訳読書ノート9                 北田 敬子

「モダン」を超えて

それは続けざまに1000ページ以上読んでもどこかに発してどこかへ至る
過程ではなかった。『ある男の聖書』(高行健 Gao Xingjian 著 飯塚容
訳 集英社 2001年)と『霊山』(同 2003)に渦巻く言語の奔流は、欧米
系文学の律儀な約束事には収まらない。この在仏の自発的故国喪失者
(exile)にして中国語で書き続ける作家に「モダニズムの系譜」といっ
た20世紀的呼称が当てはまるとも思えない。

『ある男の聖書』(原著出版 1999年)が「自伝的」というのは頷ける。
革命寸前の中国に生まれ、毛沢東率いる共産主義国家に育ち、文化大革
命の嵐をくぐり抜け、やがて国からも同胞からもあらゆる束縛から逃れ
出ることで自己を保とうとする「作家/芸術家」の遍歴が語られるとい
う点においては。しかしこの旅に終わりはない。「霊山」を目指して放
浪する作家の物語(原著出版 1990年)はさらに壮大な規模で古代から現
代の中国まで、自然、人、文化を俯瞰しようとする。個人を超えた魂の
記録とでも呼ぶしかない。これは言語表現という行為を自問し続ける
「メタ・小説」でもある。

国家という仕組みへの懐疑、文革時代の理不尽な施策批判、為政者と人民
の確執の活写、繰り返される濃厚な性愛描写などが、高行健の作品を中華
人民共和国が発禁処分にする理由だろう。国外からしかこのようなものが
生まれ得ないところに、現在の中国の状況は推察できる。しかし中国大陸
から今後出てくるものが、産業・科学技術・巨大市場などばかりではなく、
数千年に及ぶ歴史の蓄積から醸造される言語芸術を含むものに違いないこ
とは予感できる。高行健には2000年度ノーベル文学賞受賞作家というレッ
テルもほんの付け足しのように感じられてならない。飯塚容の闊達な訳業
に、我が国の外国文化受容の根元に中国があり続けたことを再認識し、漢
字文化が相互にやりとりしてきたものの意味を改めて熟考したくなる。


***** For your reference *****

高 行健 (Gao, Xing-Jian)
(国籍) フランス (職業) 作家;劇作家;画家
1940年1月4日中国・江西省に生まれる。
北京外国語学院フランス語部〔'62年〕卒
1957年北京外国語学院フランス語部に入学、アラゴンやサルトル、ブレ
ヒトを知り、戯曲や脚本、小説、詩の創作を開始する。'66年から文化
大革命下で農村に下放。'77年北京に戻り、'79年中国共産党に入党。
'81年より北京人民芸術劇院に所属。'82年の戯曲「絶対信号」以来、
演出家の林兆華と組んで中国の実験的な小劇場演劇の先頭に立つ。
'83年不条理劇「バス停」を発表するが当局の"精神汚染"追放キャン
ペーンで批判を受け、'86年には劇の上演が禁止される。この頃から
水墨画の手法を使った抽象的油絵を描き始め、'87年ドイツの芸術財団
の招聘を受け出国。'88年フランスに政治亡命し、パリに渡る。のち
フランス国籍を取得。'89年天安門事件に触発され戯曲「逃亡」を発表、
同作品は中国共産党から批判される。同年共産党を離党。のち中国本土
では作品が発禁処分となる。また演劇評論や小説も手掛け、画家として
も活躍。2000年中国の小説や戯曲に新たな道を切り開いたとして、中国
系作家として初めてノーベル文学賞を受賞。他の作品に「野人」「現代
折子戯」「霊山」など。近年はフランス語でも執筆

               (データ提供:日外アソシエーツ-WHO)
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