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■ 翻訳読書ノート36                   北田敬子

 記録された市場の全貌

『築地』(テオドル・ベスター著 和波雅子/ 福岡伸一 訳 木楽社 2007)
 は原題を”TSUKIJI: The Fish Market at the Center of the World”
 という。このハーバード大学の文化人類学者にとって築地の魚市場こそ
「世界の中心」であったことが、全巻を通じてひしひしと伝わってくる。
 彼は読者を東京都中央卸売市場築地市場水産部の奥の奥まで連れ込む。
 本書には築地という街のあらまし、市場の成立過程、場内の商取引慣例
 の仕組み、日本の水産業の構造と現況、市場に関わる人々の生活と意見、
 日本の食文化における水産物の意味、築地市場を巡る労働環境、魚市場
 に関わる言語と表象、今後の市場移転計画概要等々、築地を舞台に繰り
 広げられる万象とも言うべき事柄が包括的に論じられている。

 著者は20年にも及ぶ築地通いから江戸前の諧謔精神を会得したものと思
 われる。専門書でありながら、この本からは得も言われぬ面白さが立ち
 のぼってくる。仲卸人の職能に詳細な解説を加えるにしても、そこには
 人の手振り、分単位の動き方、彼らがかぶる帽子に付いているライセン
 スプレートの意味、職人芸としか言いようのない素早い取引の実際が手
 に取るように描かれて、しかも市場全体の構造と経済活動に占める位置
 まで委細漏らさず扱っていながら文体が軽妙なのだ。もしこれが無味乾
 燥な学術用語だけで書かれていたなら、きわめて限られた読者にしか届
 かなかっただろう。だが、思わぬところに挟まれる具体的な人間観察と
 人々をめぐるエピソード、それにことば遊びの愉快さがページを先へ先
 へとめくらせる。著者の築地市場への愛着が研究の大原動力になってい
 ることは明白だ。文中にも時折姿を見せるベスター氏は何と幸福な学者
 であろうか。翻訳者たちも彼の意を汲んで、江戸前の言葉遣いを巧みに
 再現している。日本社会を対象として英語で書かれた本を再び日本の読
 者に提供するという、メビウスの輪のような反転には、異国のものを日
 本語に移し替えるのとは異なる要求があるはずだ。言い回しの、用語の、
 語法のズレは許されない。頻出する脚注・用語解説の他に文中に差し挟
 まれる訳注は、夥しい参考文献渉猟の跡を留める。(決して煩わしくは
 ない。)

 しかし、『築地』から読者が得るものは重い。市場施設の老朽化は否定
 しようもなく、(おそらく豊洲への)移転は実行されるだろう。既に当
 地での市場の終焉を視界に入れたこの膨大かつ詳細な築地の記録は、特
 定の分野に限らない人々の依拠すべき文献として長く読み継がれるもの
 と思う。本書に消えて行くものへの哀惜ではなく、(変形は免れなくと
 も)継承されていくはずのシステムとカスタムへの信頼を読み取るなら、
 実行するのはあなた方自身をおいて他にないと読者は後を任されたよう
 なもの。鮨をつまむ手が、ふと止まりそうだ。

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