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【著者プロフィール】
   今井 克佳(いまい・かつよし)
   東洋学園大学・現代経営学部准教授
   埼玉大学卒業・東京都立大学大学院博士課程満期退学
   専門は日本近代文学・特に詩の分野。
   文学研究の参考にと、古典翻訳劇の上演には長く足を運んできたが
   近年は演劇の面白さにハマり、ジャンルを問わず様々な舞台に出かけ
   ている。
   観劇レビューブログ http://tabla.cocolog-nifty.com/junrei/
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路面電車の面影を残すかわいらしい車両が今も走る世田谷線の起点、三
 軒茶屋駅改札口の並びにシアタートラムがある。客席の配置は上演形態
 によって変化するが普段は約200席に満たない小劇場だ。14、5年
 前、仕事帰りに時折利用した世田谷線はまだレトロな木製の車両で、今
 のシアタートラムのあたりは草ぼうぼうの空き地か何かだったような気
 がする。そこに世田谷パブリックシアターと併設されるシアタートラム
 が開設されてから昨年で10周年とのことだ。

 11月から12月にかけて、そのシアタートラムでフランツ・カフカ
 の小説をもとにした演劇作品が2本、上演された。演出は松本修。文学
 座出身で現在近畿大学でも教鞭をとる。ワークショップを重ねる手法
 で、これまでも連続してカフカ作品の上演を行い、いくつかの演劇賞受
 賞などの成果をあげている。彼の手法の特徴は、異なった場面の集積で
 物語を紡いでいくことと、フィジカルシアター的要素が強く、特に集団
 としての動きで場面を表現していこうとすること。このあたりはアング
 ラ演劇的な要素を引き継いでいるともいえる。さらにダンスカンパニー
「イデビアンクルー」の井出茂太を振り付けに起用し、いくつかの場面
 では、心沸き立つダンスシーンや不思議なパントマイムのような動きを
 取り入れている。

 交互上演とはあまり聞かない言い方だが、片方の作品を3日間上演した
 ら、別の作品を3日間上演、またもとの作品を数日、といった感じで同
 じカンパニーの俳優たちが両方の作品に出演していく形態だ。俳優たち
 もたいへんだが、両方見ようと思うと見る方も何日か後に同じ劇場を訪
 ねなければならない。

 この交互上演では、座席の配置が特徴的だった。「審判」では通常の舞
 台と客席の位置関係なのだが、「失踪者」ではこの位置が入れ替わる。
 客席への入り口を入ると、普段は舞台がある正面に座席が作られてい
 て、観客はそちら側にわたっていかなければならない。そして自分たち
 が入ってきた客席入り口の側が舞台となるのである。これは両方の作品
 を見ないとわからないのだが、まるで鏡写しのように配置されている。
 人生という舞台では私たちは観客でもあるが出演者でもある、といった
 発想だろうか。舞台は3階層に分かれ、客席も段差が大きい。垂直に向
 かい合わされた気持ちになる。

 カフカの不条理小説といえば「変身」が有名だが、これは松本の劇団で
 あるMODEで別の機会に舞台化している。「審判」も映画化されている
 比較的有名な作品だ。銀行の副頭取をしている青年がある日理由もな
 く告訴され、裁判が続く。やがてなんの前触れもなく有罪の宣告によ
 り無惨に処刑されてしまう、という話だ。遅々として進まない裁判。弁
 護士をはじめ登場する人物たちはみな詭弁を弄し、なぜかモテモテの主
 人公はすぐに女に逃避する。まあ、世の中ってそういう空しいものよ、
 ということだろうが、三時間の上演時間(休憩は含まれるが)ではさす
 がに最後はうんざりしてくる。いつもの固い座席ではなくて、なんだか
 ふわふわする素材が使われていたので救われた。

「失踪者」はすでに二度上演されている「アメリカ」の再々演である。
「アメリカ」はカフカの未完成の小説で一般にはあまり知られていない
 ようだが、舞台化は他にも見たことがある。ヨーロッパからアメリカの
 親戚を頼り、渡航した少年が、富豪の親戚に引き取られるが、そこから
 追放され放浪を重ねるという物語。こちらはさらに長く、なんと上演時
 間3時間40分! しかし芝居はこちらのほうが面白かった。少年役を
 複数の俳優が引き継いで演じるので、少年の内面の変化が外面に現れ
 る。「審判」では何事も理不尽で不明で事態も全く変わらないが、「失
 踪者」では何事も理不尽で不明だが、少年の境遇はどんどん変わってい
 く。ロードムービー的なのだ。

 未完の結末を松本は、カフカの死後、ドイツ帝国がたどった運命に重ね
 合わせる。カフカはユダヤ人。「失踪者」の少年を乗せた列車はアウ
 シュビッツ行きだったのか。そのことを暗示して長い芝居は終わる。

 さて、この連載も長きにわたったが、私も「失踪者」よろしく消えるこ
 とにする。もちろん行き先はアウシュビッツではなく、ロンドン。大学
 のサバティカルを利用し、「翻訳劇」でない演劇をたくさん見てくるつ
 もりである。またいつかネットで、あるいは直接お会いしましょう。あ
 りがとうございました。(終)

 ■ “7500円オペラ” の楽しみ方
           ―――世田谷パブリックシアター「三文オペラ」

                            今井 克佳

 この連載で白井晃演出作をとりあげるのは二回目だけれど、ブレヒト劇
 を単独でとりあげるのは初めてだと思う。「三文オペラ」である。1920
 年代のロンドンを舞台に、盗賊の首領メッキーの結婚と逮捕、処刑を中
 心に資本主義の矛盾を描く。

 ブレヒト劇のなかでは代表作の一つといわれ、「肝っ玉母さんとその子
 供たち」とともに、よく上演されている作品だと思う。しかし以前見た
 演出があまりにつまらなかったので、ちょっと敬遠していた。正直言う
 と、ブレヒト劇は苦手である。特に、付き物である、あのクルト・ヴァ
 イルの音楽が… なんだか暗くいかめしい印象が強く、いわゆる音楽劇
 の楽しさなど微塵もないような気がして客席から逃げ出したくなってし
 まう。言い過ぎだろうか。しかし今回は、才気あふれる白井演出、そし
 て出演が吉田栄作、篠原ともえ、ロック歌手のローリーということで、
 ちょっとは期待しつつ、劇場に出向いたのであった。

 いきなり最前列、しかもはじっこ。舞台は三層構造になっており、一番
 下の階は客席と段差がない。うわっ、ちょっと近すぎるよ、という感じ
 で、小劇場風の良さはあったが、ブレヒト劇特有の、電光掲示板が見え
 にくい。ここに出てくるト書きや歌の題名などがわりと重要で、ブレヒ
 ト劇の特徴と言われる「異化効果」のひとつであり、白井演出でも結構
 独特の使い方をして、笑いをとっていた。たとえば一幕の終わりに「休
 憩」と出しておいて、次の瞬間、「なしで二幕」と出したり、歌の題名
 を出しておいて「歌わずに次の場」などとする。異化効果のブレヒトを
 さらに異化していくといった手腕が各所にあり、なるほどそれはブレヒ
 トにふさわしい。

 それでも、本家ベルリナーアンサンブルのハイナー・ミュラー演出のよ
 うに、ぶっとんだものにしないのは、上演権の問題もあるのだろうか。
 クルト・ヴァイルも健在だし、そういう意味ではまずテキストに忠実な
 中道的な演出ではある。ノートパソコンを出したり、死刑装置を電気椅
 子にしたりと、現代風にしたのはありがちなご愛敬だが、最も注目すべ
 きは、セリフも歌詞もすべて新翻訳で行ったことだろう。

 酒寄進一氏の新しい翻訳は、若者言葉や現代風俗を取り入れており、な
 じみやすくなっている。しかし、さすがに「年金問題」とか言っている
 のはどうなんだろう、と観劇後にロビーで売っている戯曲本を買ってみ
 るとさすがにそこまでは入っていない。後書きには、今回の上演を前提
 に役者に当て書きしたとは書いてあるのだが、さすがに稽古場で生まれ
 た過激なセリフまでは取り入れなかったようだ。

 歌詞については、新翻訳をもとにローリーがアレンジしたようだがこれ
 がまたぶっ飛んでいる。この物語は最後のメッキーの処刑場面で、唐突
 に女王からの恩赦が下されるのだが、その場面で歌われるメッキーの歌
 詞が「助かった。助かった。台本読んでたからわかってたぜ、ブレヒト
 ありがとう!」である。これにはあきれるのが半分、感心するのが半分
 だった。ローリーは出演者としては、奇抜なマネキンに過ぎなかったが、
 彼(彼女?)の功績はこうした「空耳アワー」的な歌詞の創造に尽きる。

 吉田栄作は、大泥棒としてはちょっと好青年タイプ過ぎる嫌いはあるが、
 新国立など商業演劇以外のジャンルに真摯に取り組んでいる姿勢を評価
 したい。篠原ともえは実はシリアスな演技もできる女優だが、今回は例
 の不思議ちゃん的キャラクターで、婚約者を演じたのはかえって作品に
 新鮮味を与えていた。

 完全に現代に移された演出ではないこともあり、資本主義の台頭してい
 く時代に書かれた大時代的な批判については、やはりちょっとうんざり
 と来てしまった面もあるのだが、言葉の「異化効果」についてはなかな
 か楽しめた。できればクルト・ヴァイルからも解放された現代的なブレ
 ヒトをもっと見てみたいものだ。

 上演情報
 音楽劇 「三文オペラ」(世田谷パブリックシアター)
 2007年10月09日(火)~2007年10月28日(日)
 [作] ベルトルト・ブレヒト
 [音楽] クルト・ヴァイル
 [翻訳] 酒寄進一
 [演出] 白井晃
 [音楽監督] 三宅純
 [歌詞] ROLLY
 [美術] 松井るみ
 [振付] 井手茂太
 [出演] 吉田栄作 篠原ともえ/大谷亮介 銀粉蝶 佐藤正宏
     猫背椿/ROLLY 他
 http://setagaya-pt.jp/theater_info/2007/10/post_90.html

■目立たないけど「夢」の競演    ―― 新国立劇場「夏の夜の夢」

                                    今井克佳

 日本では何回上演されたのだろうか。シェイクスピアの代表的喜劇「夏
 の夜の夢」。伝説的な舞台として有名なピーター・ブルックの演出版は、
 1973年に来日したのだそうだ。真っ白なさらのステージと、妖精の王・
 女王と、アテネの侯爵・婚約者を同一配役で行った斬新な舞台は、いま
 だに語り草で、話題に出されるとまたか、と観てない自分はうんざりす
 るくらいだ。ブルック以降、ほとんどの演出が、妖精王カップルと伯爵
 カップルの同一配役を踏襲しているようで、それほど本質をついた演出
 だったのだ。

 そのピーター・ブルックが所属していたRSC(ロイヤル・シェイクスピ
 ア・カンパニー)の演出家であるジョン・ケアード。トレバー・ナンと
 ともに、日本でも再演を繰り返すミュージカル「レ・ミゼラブル」を手
 がけた彼が、はじめて新国立劇場で今回、演出したのが「夏の夜の夢」
 である。

 ところで坪内逍遙が「真夏の夜の夢」と訳した”Midsummer Night's
 Dream”は福田恒存によって「夏の夜の夢」と改訳された。Midsummerは
 夏至前後の時期のこと。劇中の時季は5月1日の夜である。題名と内容が
 ずれている理由は諸説あるが、いずれにしても日本の「真夏」のイメー
 ジではない。そういう意味では、今回の上演は6月だからまずは、「夏の
 夜の夢」にふさわしいといえる。もちろん、梅雨のないギリシャやイギ
 リスの「夏」はまた違った感覚ではあろうが。

 奇を衒いすぎないが斬新さのある演出。さすがにウェストエンドのミュ
 ージカルを作れるだけの才気があふれている。アテネの侯爵邸は、少し
 現在風だがオーソドックスに。回り舞台で反転するとアテネの森は、二
 つの螺旋階段によって模された、金属の森だ。妖精たちは皆、フェアリ
 ーテールそのままの小さい羽を背中につけている。こういう衣装はベタ
 過ぎるので実際あまり採用されないがゆえに、むしろ新鮮だ(おまけに
 オーケストラピットの演奏者まで同じ羽をつけているのがかわいらしい)。
 幕切れでは同じアテネの森がすでに撤収されて裏舞台、白木のセットが
 むき出しのまま、パックの最後の口上となる。
 こうした美術的な楽しみ以上に、出演者の顔ぶれが楽しかった。いや、
 テレビや映画で有名なイケメン俳優、アイドル女優しか興味のない方々
 にはそれほどでもないだろうが、普段から大・小の劇場に足を運んでい
 る観客にとっては、メディア的には目立たないが、いつもそれぞれの持
 ち場で、すばらしい演技を披露してくれる俳優たちを一同に観ることが
 できたのだから。

 たとえば妖精の女王は麻美れい。宝塚を出自としながら、すでに蜷川演
 劇をはじめとするストレートプレイに多数出演。数々の演劇賞を受賞し
 ている。貫禄のある落ち着いた女性を演じることが多い彼女が背中に妖
 精の羽をつけて、おつきの妖精たちとちょこまかと踊る姿はめったに観
 られるものではない。

 アテネの森で恋の狂乱に惑う4人の若者たち。ハーミアは宮菜穂子。ミュ
 ージカル中心の実力派若手だが、この連載でもとりあげたtpt「血の婚礼」
 のういういしさが印象的だった。対するヘレナは小山萌子。二兎社の永
 井愛作品の常連だ。コメディエンヌとして現代劇中心に活躍しているの
 で、古典劇の衣装を着た彼女を観るだけでも新鮮。男性陣。ディミート
 リアスは青年座の若手、石母田史朗。対するライサンダーはキャラメル・
 ボックスの細見大輔。まるで異種格闘義戦のような顔合わせ。

 ふと気がつくと妖精のなかに見覚えのある女優が。しばらく芸能界から
 姿を消していた神田沙也加(松田聖子の娘)ではないか。いつのまにか
 舞台復帰していたのだ。きわめつけはパック。つかこうへい劇団出身で、
 やはりtptの「エンジェルス・イン・アメリカ」の強烈な天使役が忘れ
 られないチョウソンハ。腕の骨折もなんのその。あいかわらずのキイキ
 イ声で強烈なパックを演じていた。ああ、こんなに楽しめるとは、日頃
 の劇場通いが功を奏したというわけか。贅沢である。

 遊び心あふれた演出だが、一本通ったメッセージも感じる。大団円の祝
 宴の場。妖精たちの祝福のもと、本来は交わらないはずの貴族たちと、
 クインス率いる劇中劇を披露した下層の町人たちが、手と手を携えて踊
 る。見えない世界と見える世界、上層下層も関係なく、すべての「いの
 ち」が一体で、どちらが夢でどちらが現実ということもない。生きとし
 生けるものすべてへの祝福。古典悲劇の中に現代へのメッセージをしの
 ばせる手法はよくあるが、喜劇のなかにも現代への強いメッセージを読
 みとることができたのはうれしかった。

 上演情報
 新国立劇場「夏の夜の夢」2007年5月31日~6月17日
 作:ウィリアム・シェイクスピア
 翻訳:松岡和子
 演出:ジョン・ケアード
 http://www.nntt.jac.go.jp/frecord/updata/20000015.html

 

 ■目で見るか、耳から聞くか。――外国語上演の翻訳装置
                           今井 克佳

◆考察―外国語上演における翻訳装置

通常この連載記事は、戯曲の段階で外国語から日本語に(一部逆のもの
も取り扱ったが)「翻訳」された「翻訳劇」のレビューを書いてきたが、
今回は、外国語上演における翻訳装置について、考えてみたい。たとえ
ば、ドイツの劇団が来日し、ドイツ語の演劇上演を日本人に向けて行う、
という場合である。

もちろん、ドイツ語が理解できる人はそのまま楽しめばよい。英語など、
かなり普及している外国語で、なおかつシェイクスピアなどの古典など、
物語や戯曲をあらかじめ知ることができるものであれば、そのまま楽し
める人も多いだろう。しかし新作や、あまり上演される機会がないもの、
そして、たとえばそれが、アラビア語や、タイ語の上演だったら、どう
だろうか。やはりなんらかの翻訳装置の必要性が高まる。

外国語上演の翻訳装置として成立しているものは2種類。ひとつはイヤ
ホンガイド。一つは字幕装置である。

最近、イヤホンガイドは経費の関係かほとんど使われず、字幕を電光掲
示板に表示するものがほとんどのように思える。ここ2,3年のことだ。
字幕表示の技術も、改善されて使用しやすくなったのかもしれない。
字幕の掲示場所も、縦置きで舞台の両端だったり、舞台奥に横に表示し
たり、はたまたホリゾント(舞台背景)全体にでかでかと表示したり、
と様々。またテレビのような長方形のプラズマディスプレイに、複数の
行や、多言語表示をする場合もある。

◆世界各地で上演されている「現代口語演劇」

先月観た青年団「東京ノート」(駒場アゴラ劇場)。平田オリザが「現
代口語演劇」のスタイルを確立した記念碑的作品の再演だが、日本語で
の上演にも関わらず、初演から14年間、世界各地で上演されてきたため
十数カ国語の字幕がそろっており、日替わりで表示されていた。私が観
にいった日の字幕はまるで見たことのない言語で、ついに何語か確かめ
るのを忘れてしまった。「現代口語演劇」といえば「同時多発会話」。
複数の会話のセリフが同時に語られる。「リアル」さを追求した平田独
自の形式だ。こうした「同時多発会話」も面積の大きなディスプレイな
ら、上部と下部に同時に表示することができてしまう。もちろんこれは
小劇場で字幕が見えやすいということが前提ではあるが。

平田の劇団「青年団」は字幕上演に、絶対的な自信を持っているようだ。
「1秒の表示の違いで、客席から笑いが出るかどうか決まる」と平田自
身が話していたのを聞いたことがある。たしかに昨年、新国立劇場で再
演された日韓合作「その河を越えて、五月」や、先月の日仏合作「別れ
の唄」(シアタートラム)の字幕上演はすばらしかった。

しかし、つい先週観たやはり新国立での中日合作「下周村」は、平田が
作・演出にからんでいるにも関わらず、中国語のセリフが大量で早口で
演じられるため、字幕が4行にもわたる抽象語の連続であったりして、
とても追えるものではなかった。さすがにこれは字幕の限界である。

また3月に来日したチュニジアのファミリアプロダクション「囚われの
身体たち」の初日は、字幕のタイミングがめちゃくちゃでかえって内容
の理解を妨げるようなものだった。一般的な劇場の字幕装置は、基本的
には字幕が自動的に流れるように設定されていて、タイミングがずれて
しまったときの調整が手動で行えるようになっているのではないかと思
われる。多分リハーサルなしのぶっつけ本番だったのかもしれない。こ
んなこともあるので、実は字幕上演はあまり好きではない。

◆イヤホン派?字幕派?

さて、もうひとつのイヤホンガイドである。歌舞伎座などでも解説用に
貸し出している、ワイヤレスで音声が聞こえる、あれである。だいたい
有料+保証金で貸し出され、終演後に回収される。料金はまちまち。直
近でイヤホンガイドで観た上演は、2005年の新国立劇場に来日した、ベ
ルリナー・アンサンブルの「アルトゥロ・ウイの興隆」。ブレヒトゆか
りの劇場、そして故ハイナー・ミューラーの新演出、名優の代表作とい
うことだったが、客の入りはよくなかった。外国演劇というだけで敬遠
されてしまうのが悲しいことに現在の日本の状況だと思う。

イヤホンガイドの長所は、字幕と違って、目は俳優の演技に集中できる
こと。セリフの方は原語と翻訳語とを両耳から同時に聴くことになるの
で、原語のほうが聞き取りにくくなるが、字幕を読んでいる間に俳優の
表情や仕草を見逃した、というようなことがない。翻訳セリフは、俳優
(声優)がリアルタイムで読み上げている。

「アルトゥロ・ウイ」の「シアタートーク」(上演後に関係者が舞台上
で懇談し、質問なども受ける)で、司会者がイヤホンガイドと字幕のど
ちらがよいかと客席に聞いたら、字幕のほうに手を上げた人が多かった。
私はすごく意外だったのだが、なぜ字幕のほうがよいと思うのだろう?
単純にお金がかからなくてすむということだろうか。私などは数百円余
計かかっても、イヤホンガイドのほうが演劇を楽しめると思うのだが。
なんだか悲しかった。

2004年、シアターコクーンでの野田秀樹「赤鬼」のロンドン、タイ、日
本バージョン連続上演の時も、ロンドン、タイバージョンはイヤホンガ
イドだった。野田自身がイヤホンガイドを推奨したことと、客席が舞台
を四方から囲む構造だったため、字幕の配置が難しいということもあっ
ただろう。このときはイヤホンから聞こえるのが、実は野田自身が書い
たオリジナルの戯曲の言葉に近かったわけだから、面白い体験となった。
それでも、有名俳優が出演する日本バージョンに比べて、ロンドン、タ
イバージョンは当日まで席が埋まらないという状況で、当初有料の予定
だったイヤホンガイドは無料貸し出しに変えられていた。

このように、イヤホンガイド上演は私の意に反して不評のようなのだ。
経費や手間がかかる上に不評では続くはずもない。いまやほとんどが字
幕上演である。つまらん。字幕上演もよくなっているのだろうけれど、
やはりイヤホンガイドの方が自分はいいのである。

まあイヤホンだ字幕だという以前に、外国語上演というだけで、敬遠す
る日本の観客の程度が残念である。演劇はたとえ言語がまったく解せな
くとも、豊かに伝わるものをもっているはずの芸術なのだから。

 ■ 出会い系演劇?との出会い
   ―「ヒステリア」と「コペンハーゲン」
                            今井 克佳

出会い系と言ってももちろんそういうことではない。それに、たまたま
2つ続いただけである。つまりは、「歴史的人物同士の出会い」をモチ
ーフにした翻訳劇を偶然にも2つ続けて観たということなのだ。

1つ目はシアタートラムで上演された白井晃演出「ヒステリア」。1939
年にロンドンに亡命していた晩年の精神分析学者フロイトを、シュール
レアリズムの画家ダリが訪ねた、という事実をもとにイギリスの劇作家、
テリー・ジョンソンが書いた「喜劇」である。

フロイトは串田和美、気難しい老学者の風貌と雰囲気を非常によく出し
ていた。ダリは演出も兼ねる白井晃。ぶっとんだ変わり者をコミカルに
演じていてギョロ目をひんむくところなどはステレオタイプではあるが
笑ってしまう。ダリのセリフはもともとスペイン語なまりの英語で書か
れているそうなのだが、たどたどしい、不思議なカタコトの日本語とな
っていた。フロイトのもとを訪れる謎の女性(元患者の娘)には荻野目
慶子。「喜劇」というふれこみではあるが笑える場面はそう多くなく、
むしろフロイトのヒステリー分析の話が中心なので女性の幼児期のトラ
ウマなど、ドロドロした話が多い。

客席200余の「小劇場」といえるシアタートラムの舞台と客席の幅が通
常より、さらに狭く設定されており、リアルに作られた、額縁舞台(フ
ロイトの書斎)は天井の方が高く、縦長に見える。物語が進むにつれて、
この話自体が、末期の舌ガンの痛みを抑えるためのモルヒネが、フロイ
トに見せた幻覚ではないかと疑われてくる。やがて、この縦長の舞台が
左右に揺れ始める(劇中で言及されるチャップリンの映画の移民船の場
面にヒントを得ているのだろう)。さらにダリの絵画をモチーフにした
歪んだ物体の映像が映写され、幻覚感を増幅させる。決して後味のよい
話ではなかったが、あいかわらず才長けた白井演出を堪能できた。

2つ目は、新国立劇場での「コペンハーゲン」。やはりイギリスの劇作
家マイケル・フレインが98年に発表し、2001年に新国立で日本初演され、
数々の演劇賞を受賞した作品で今回は再演。

ダリがフロイトを訪ねた二年後、1941年、ナチス占領下のデンマーク、
コペンハーゲン。ユダヤ系で、量子物理学の大家、ボーア(村井国夫)
のもとに、以前ともに「コペンハーゲン解釈」を生み出した弟子で、現
在はドイツ物理学会の要職にある、ハイゼンベルク(今井朋彦)が訪問
する。この史実がもとになって、この二人に、ボーアの妻マルガレーテ
(新井純)を加えた登場人物が、死後の世界から、回想シーンを演じた
り、ト書きを話したりしながらの3時間。

「ヒステリア」がまったく異業種の二人だったのに対して、こちらはか
つての師弟関係、同業者だ。「ヒステリア」が演出の面白さなら、こち
らは、言葉、言葉、言葉。フレインは「うら騒ぎ・ノイゼズオフ」(同
じく新国立劇場で2005年に白井晃が演出)のような喜劇も書くが、これ
は、がっつりしたセリフ劇。おまけに、量子物理学や核開発の専門用語
が飛び交い、それらが、性格や生き方の比喩としても使われるため、な
かなか難解である。

二人の性格と人生が長期にわたり俯瞰される。科学者の知的好奇心、世
俗欲、競争心、などなど人間くささが描かれ、背景として、ハムレット
に出てくるエルシノア城、ドイツの田園風景や戦場と化した廃墟なども
語られる。

しかし、彼らが携わったのは人類史上最初の核兵器開発。一人は失敗し、
一人は成功者の側につく。つまり、ドイツとアメリカの核開発、そして
その結果としての広島・長崎である。劇中には広島・長崎が数回、言及
されるが、残念ながら目はそちらには向ききってはいない。日本人とし
ては少し不満が残る。主眼は、ハイゼンベルクのボーア訪問の意図はな
んだったのか、という謎解きだ。

膨大なセリフをこなした今井、村井に拍手。抽象的な舞台美術やときお
り流れるクラシック音楽も美しかった。同じイギリス人が書いた二つの
作品で邂逅する歴史的人物たち。時代はどちらも第二次大戦の最中。そ
の出会いは化学反応を起こし、ドラマが生まれる。不思議な共通点と対
比は面白く、この二つの作品が前後して東京で上演され、それを観るこ
とが出来たのもまたひとつの「出会い」として感謝したくなった。

上演情報
「ヒステリア―あるいは、ある強迫神経症の分析の断片」
  シアタートラム 2007年2月13日~3月3日
 作:テリー・ジョンソン  
 翻訳:小宮山智津子  
 演出・上演台本:白井晃
 出演:串田和美 荻野目慶子 あさひ7オユキ 白井晃 
http://www.setagaya-ac.or.jp/sept/jouhou/06-2-4-58.html

「コペンハーゲン」新国立劇場小劇場 2007年3月1日~18日
 作:マイケル・フレイン  
 翻訳:平川大作  
 演出:鵜山 仁
 出演:村井国夫 新井 純 今井朋彦
http://www.nntt.jac.go.jp/frecord/updata/20000010.html
 ■ ベタの折衷、世界を制す
    --- 鈴木忠志演出「劇的な情念をめぐって」
                            今井 克佳

アングラ演劇の雄、「早稲田小劇場」から出発して、いまや独特の肉体
訓練を伴う演出文法、いわゆる「スズキメソッド」で世界に知られる演
出家、鈴木忠志が16年ぶりに東京で上演を行った。11月上旬のことであ
る。彼の作品は本拠地である富山の山奥、利賀村か、芸術監督を務める
(今年度で引退)、静岡舞台芸術センター(SPAC)で上演されるかだった
が、新国立劇場とSPACの共同制作によってひさびさの東京公演が実現し
たのである。

「劇的な情念をめぐって」と題された上演は三作。エドモン・ロスタン
の「シラノ・ド・ベルジュラック」、チェーホフの「イワーノフ」、そ
してギリシャ悲劇「オイディプス王」である。「シラノ」は中劇場で、
他二作は小劇場での二本立だ。

「イワーノフ」から語ろう。まあ救いようの無い話だ。社会改革の理想
に燃えて、ユダヤ人の妻と結婚したが、理想が破れ、重病の妻を家に残
しながら浮気に走ってしまう男。鈴木演出では、イワーノフ以外の登場
人物のほとんどが大きな買い物かごのなかにいる。男たちは「鼻眼鏡」
(ドリフターズの加藤茶みたいな)をしている連中が多く、車椅子に乗
り、剥き出しの足を高くあげながら動いて行く。視覚的にはかなり奇矯
で滑稽。ゲームの世界のキャラクターみたいだ。もっと笑っていいのだ
と思うのだが、なぜか静まりかえった客席。世界の鈴木の頭の中はこう
なっているのか。これが劇作から得た自分の「イリュージョン」だと演
出家自身がパンフレットに書いている。

そして「オイディプス王」。地球を模したという円形の舞台をやはり車
椅子に座ったオイディプス王がぐるぐるまわりながら演技をする。世界
は病院。最近の鈴木演出のほとんどがこの発想なのだそうだ。オイディ
プス役だけがドイツ人の役者でセリフもドイツ語だ。鈴木メソッド独特
の腹から絞り出すような太い発声。他の登場人物はこの地球の模様の周
りに丸く配置された円筒形の台の上に次々と現れ、セリフが終わるとそ
の場に人形のように固まってしまう。衣装も荘厳で、一種の様式美を感
じさせ、迫力もある。しかしあまり変化が少なく、途中、つらいところ
もあった。

そして、「シラノ」。個人的にはこれがいちばんよかった。戯曲はフラ
ンス、衣装、セット、俳優の肉体は日本伝統風。音楽はヴェルディのオ
ペラ「椿姫」、つまりはイタリア、とパンフの言葉で言えば「ミスマッ
チ」。演出家は近代日本の文化自体が虚しいミスマッチだが、それを
「かけがえのないミスマッチ」として世界共通の財産にするべき、という。
それがこの「シラノ」の舞台なのだ。「シラノ」は江戸末期頃の武士と
思われる「喬三」という人物の幻想の中の分身。クリスチャンやロクサ
アヌも幻想の中の人物とする。

白い花のあふれるセットはたとえそれが葬儀の花のイメージと聞いても
美しい。やはり白い着物で現れる女たちは、途中で日本人形のように書
き割りと化してしまうが、ヒロインのロクサアヌを含めて今回はオーデ
ィションで集めた若き女優たちが演じており、新鮮だ。戦場を訪れて料
理を振る舞うロクサアヌの口にする料理の名前は実にユーモラスで笑っ
てしまう。鈴木メソッドを権威としてあがめ奉って観るのはやめたほう
がいい。笑いのセンスにもあふれているのだから。

大仰に流れる「椿姫」もベタ。最終部で雪を振らせてシラノを去らせる
歌舞伎風演出もベタ。物語ももともとベタ。ベタベタである。このベタ
の組み合わせに、うーん、と感動させられてしまう。そしてそのベタの
背景に、理路整然とした演出意図をおいておく。これが鈴木演出の構造
なのではないだろうか。その「鈴木メソッド」が新劇の源流、「チェー
ホフ記念」の名を冠し、あのスタニフラフスキーシステムを生み出した
「モスクワ芸術座」の作品に採用される時代である(12月に「リア王」で
来日)。オリエンタリズムの物珍しさという嫌いもあるとはいえ、いま
や鈴木演出というベタの「ミスマッチ」が世界を制したのである。
  ■ サリヴァン先生は20歳だった。  ―――『奇跡の人』
                                                    今井 克佳

実はウェルメイド・プレイはあまり好きではない。リアルな演技とリア
ルな衣装。わかりやすいストーリー。日本人が顔を黒く塗って黒人を演
じる翻訳劇。多くの現代演劇を観るうちに、そうした芝居からはあまり
刺激を受けなくなってしまったのだ。それでも大竹しのぶのサリヴァン
先生で六演を重ねたこの舞台が、キャストを一新すると聞いて、なぜか
またチケットを申し込んでいた。

アン・バンクロフトの主演でモノクロ時代のハリウッド映画にもなった、
ウィリアム・ギブソンの戯曲。あまりにも有名な、三重苦の偉人ヘレン・
ケラーと家庭教師アニー・サリヴァンの出会いから、「ウォーター」と
いう語をきっかけにヘレンがはじめて「言葉」の存在に「開眼」するま
での話だ。休憩2回を挟む3時間近い大作で、今回のヘレンは初舞台の
石原さとみ、アニーは田畑智子である。

3年前に観たはずなのに、いくつかのシーンの他、ほとんど細かい内容
は忘れてしまっていた。人間の記憶などあいまいなものだ。しかし観始
めると次第に、前回の衝撃を思い出した。記憶の底に沈んでいたが、そ
の感動を覚えていた私の潜在意識が、今回もチケットを購入させたのに
違いない。

まず思い出したのは、なぜかイメージでは中年女性のような気がしてし
まうアニー・サリヴァンが(幼少期に読んだ伝記の挿絵か何かのせいで
あろうか)、実は20歳になったばかりで、盲学校を卒業したばかりの
新米教師であったということ。アニー自身も、孤児であり、盲目であっ
た。養育院から盲学校に入り、何度かの手術で視力を取り戻してはいた
が、サングラスで常に強い光からは目を守る必要があったのだ。

この芝居はヘレンの物語であるより、むしろこのアニーの物語だ。慣れ
親しんだアメリカ北部の盲学校を離れ、慣れない南部の軍人の家庭に一
人飛び込んでいくアニー。弟を養育院で亡くしてしまったというトラウ
マにとらわれながら、甘やかされて欲望のおもむくままに育ってしまっ
たヘレンに、「言葉」を教えようと奮闘し、家族が心配するほどのとっ
くみあいの闘争が続く。やがて、指文字を模倣することを覚え、ナプキ
ンをつけて食事ができるようになったヘレンを家族は喜ぶが、アニーは
納得しない。

モノには名前があるということをヘレンが理解することが最も大切なこ
とだという。アニーはあくまでもヘレンが「言葉」を獲得することにこ
だわる。20歳にしてこの確信はどこから得たものなのだろうか。多分
盲学校で受けた教育や自分の体験でもあるだろう。アニーが恩師の論文
集を研究し続けているシーンもちらりと出てくる。それにしても。「言
葉、言葉、言葉」。

前世紀から今世紀への前衛文化は、常に「言葉」に対して不信を投げつ
けてきた。確かに「言葉」は意味を単一に限定し、ときには私たちのイ
メージや思想、行動をしばりつけ、自由を奪う。現代人は「言葉」で表
現できない世界を求め、論理につかまらない生き方を模索しているよう
にも思える。スピリチュアル・ブーム、右脳ブームなどもその一つだろ
う。

しかし人間が人間であるための必須の条件が「言葉」なのだ。「言葉」
があってこそ、「言葉」を遊び、「言葉」から遠ざかれる。それはいか
にも西洋近代的な言語重視の考え方かもしれない。しかしほとんど事実
そのままだというアニーとヘレンの物語は、圧倒的な説得力をもって、
人間が「言葉」なしでは生きられないという真実をつきつけてくる。

たとえば、生後6ヶ月でまだ健常であったヘレンが、水を「ウォーター」
と片言で言おうとしていた、という経験がなかったとしたら、ヘレンは
「言葉」を取り戻せたのであろうか。恐ろしい仮定である。演技や演出
を楽しむということからは離れてしまったが、私たちにとっての「言葉」
ということについて、深く深く思いを馳せることのできたひと時であっ
た。圧倒的な戯曲の力といえよう。これもまた演劇体験である。

上演情報
『奇跡の人』(企画制作 ホリプロ)
2006年10月4日~2006年10月22日 青山劇場
作 ウィリアム・ギブソン
翻訳 常田景子
演出 鈴木裕美
出演 石原さとみ 田畑智子 ほか
http://www.horipro.co.jp/ticket/kouen.cgi?Detail=76
 ■ 僕たちの「スペイン悲劇」
        ---TPT『血の婚礼 -Bodas de Sangre』
                                                    今井 克佳

近代スペインを代表する詩人・劇作家であるフェデリコ・ガルシア・ロ
ルカ。その三大悲劇の一つと言われる『血の婚礼』(1933年)は、
戯曲としてだけではなく、オペラ、バレエ、フラメンコ舞踏などにアレ
ンジされて、数多く上演されてきた。実直な花婿との婚礼の当日、花嫁
は自分を思い続けていた元恋人に心を動かされ、逃亡する。花婿はそれ
を追い、元恋人と決闘し、ともに倒れる。花嫁だけが生きて戻るという
ストーリーだ。

今回、観たのはTPT(Theater Project Tokyo)の上演。場所はベニサン
ピット。隅田川東岸に位置する、倉庫を改造した稽古場群のなかの一角、
TPTの本拠である。作品ごとにさまざまな空間を設定できるフレキシブ
ルな会場は、今回は大きく張り出した舞台を三方から囲む座席という形
態になっていた。舞台の端には、ワインやグラス、キャンドルなど婚礼
の宴の飾りがしつらえらえ、中央には白く大きな布が一枚。この布をロ
ープで引き上げて洞窟の家の天井を表現したり、とさまざまに空間を変
化させる趣向。この美術が非常に美しかった。

演出は若きアメリカ人、アリ・エデルソン。TPTでは二年前にも演出を
行っている。出演者は、やはり若き日本人チーム。新劇、アングラ系劇
団、東宝ミュージカル、宝塚など出身は多岐にわたる。ワークショップ
によって作り上げた舞台ということだ。

実は正直、どこか「学芸会」的な趣きを感じざるを得なかった。「学芸
会」などというと「へたくそ」という意味の最悪のけなし言葉になって
しまいかねないが、必ずしもそういう意味ではないのだ。俳優はそれぞ
れに魅力的で持ち味をよく出している。母親役のドスのきいたすごみや、
花嫁役の可憐さと冷酷さをあわせもつ美しさなどが印象に残った。ミュ
ージカル出身女優の歌もよい。

しかし、舞台上にはあきらかに「日本人」の肉体がある。そう感じたの
はなぜだろうか。一つの理由は、衣装が現代風のアレンジだったからだ
と思う。現代東京の街角や、ちょっとおしゃれなカクテルパーティーに
いてもおかしくないような服装のアレンジ。それは大仰に歴史的な衣装
を考証するよりも、自然な演技と情景を作り出し登場人物に親近感を持
たせた点で好感は持てる。ただ、それが俳優たちの日本人的肉体をあら
わにし、物語の骨格ともいえるスペインの風土は薄まってしまったよう
に思える。しかしこれはむしろ演出家の意図したところなのかもしれな
い。

婚礼のシーンでのダンスはタンゴ風であったが、「がんばって練習しま
した!」という、せいいっぱいの感じが見えてしまう。音楽はギターや
パーカッションなどを用いた俳優自身の生演奏である。素人風味である
が、手作り感としてはここちよい。このように、楽しめるといえば楽し
めるのだが、この戯曲の本質にはどれだけ踏み込めたのかどうか。「月」
や「死」という抽象的な役が出てくるシーンがあり、逆に、重要なポイ
ントであるはずの、花婿と元恋人の決闘シーンが戯曲にはない。花嫁の
揺れ動く心理も戯曲の言葉として深く書き込まれることはなく、本当の
ところが読み取れない。この戯曲はむしろ非常に様式的な詩劇ともいう
べきものではないだろうか。

アリ・エデルソンは前回、TPTで同じ現代アメリカの劇作家、デビット
・マメットの『シカゴの性倒錯』をとりあげた。これはまあ、そつない
演出だったと思う。しかし、今回の演出には苦闘したに違いない。
「運命」と「情熱」と「死」。才能を随所にちらつかせながらも、スペ
イン、アンダルシア地方の生んだ天才詩人のすごみのある世界に到達す
るには、まだ何かが足りなかった気がする。

【上演情報】
TPT56 『血の婚礼』 2006年8月5日~20日 ベニサンピット
作/フェデリコ・ガルシア・ロルカ
演出/アリ・エデルソン
http://www.tpt.co.jp/top/chinokonrei.html
 ■ 「さあ、比べて観てみよう。」
  ---ルパージュ版・白井版『アンデルセン・プロジェクト』
                            今井 克佳

外国語で演じられる演劇を字幕つきで鑑賞する場合と、同じ演出だが日
本語で演じられているのを鑑賞する場合では、どうやら脳の使い方が全
然違っているらしい。そんなことに気づかせてくれる貴重な企画が世田
谷パブリックシアターで行われた。

映像表現を舞台に巧みに取り入れた演出が「ルパージュ・マジック」と
まで称される、カナダのアーティスト、ロベール・ルパージュが、作・
演出の一人芝居『アンデルセン・プロジェクト』を自身の出演で上演し
たのに続き、同年齢でやはり劇作・演出・俳優をこなす日本の演劇人、
白井晃が、ルパージュの演出のもと、この一人芝居に挑戦したのである。

『アンデルセン・プロジェクト』は、アンデルセンの『木の精ドリアー
ド』や『影』をベースにしながら、2005年のパリに、子供向けオペ
ラの脚本家としてやってくるカナダ人のフレデリックとオペラ座のプロ
デューサー、そして北アフリカ系移民の青年(彼は声も出さず顔も見え
ないのだが)を主な登場人物とする物語である。彼らは様々な意味でア
ンデルセンの分身であり、それも、実は子供嫌いだとか、火事を異様に
恐れていた、など、知られざる、人間臭い側面を引き継いでいる。と同
時に主人公フレデリックはルパージュの分身でもあろう。戯曲は重層的
で、人物やセリフや出来事が様々に響きあう。すぐれた作品だ。もちろ
ん映像を多用した「ルパージュ・マジック」も健在である。

ルパージュ版ではさらに多言語の魅力が俳優の力として加えられる。カ
ナダのフランス語圏、ケベック出身のルパージュは二つの言語を器用に
使い分ける。特に、オペラ座プロデューサーが、どうあってもフランス
語にしか聞こえない発音の英語で数分間早口でまくしたてた後には客席
から拍手が起こったほどだ。そのルパージュにして、北アフリカなまり
のフランス語は模倣できなかったようで、それが移民青年がしゃべらな
い本当の理由なのだそうだ。

白井版は多言語をどう反映させるのか、と期待もしたのだが、特に何か
のなまりを使うという小細工はしておらず、標準的な日本語であった。
もちろんキャラクターを区別するために多少の使い分けをしていたが、
どうしても単一言語の限界があったことはいなめない。それ以前に、作
者本人の出演をなぞりながら、日本語のキャラクターを作り出していか
なければならない、という難題に、悪戦苦闘している様子が見て取れた。
確かにこれは時間的な接近もあって並大抵の苦労ではなかっただろう。

単色に見えた白井版だが、成果としてかいまみえたものもあった。物語
の背景や、登場人物の心情が手に取るように伝わるときがあるのだ。そ
れは日本語であるから、ということだけではないだろう。この作品はま
ずフランス語ベースで書かれ、つぎに英語ベースでリライトされたそう
だが、ルパージュ本人の上演でも、フランス語版と英語版ではキャラク
ターの性格が変わってしまうのだそうだ。であるならば、白井版もまた、
日本人に近しい、別のキャラクターを生み出していたのだと思う。

だが、演出にも才能のある白井晃である。できれば今後、白井演出で、
翻案版『アンデルセン・プロジェクト』を見てみたい気もしている。

『アンデルセン・プロジェクト』上演情報
 作・演出 ロベール・ルパージュ
 ルパージュ出演版 2006年6月23日~30日
 白井晃出演版   2006年7月1日~8日
 世田谷パブリックシアター
 http://www.parco-play.com/web/play/sept/andersen/
 ■ 床屋と俳句と不条理劇 ― 新国立劇場『カエル』
                            今井 克佳

そういえば、実家に戻ってもカエルの鳴き声を聞かなくなった。高校生
の頃は梅雨時の夜はうるさいくらい鳴いていた田んぼのカエルたち。
「あなたはカエルの鳴き声を聞いたことがありますか。カエルはまだあ
なたのところにいますか。」という作者の問いかけ(パンフレット)は
深く心に残ったのだが…。
中国の劇作家、過士行=グォ・シシンが新国立劇場に脚本を書き下ろし、
鵜山仁の演出で上演された『カエル』。出演者4人は、いずれも実力派
とくれば、観に行かない手はない。
過士行の作風は、いわゆる不条理劇のようだ。中国の南方の海岸らしき
場所に床屋がある。客と理髪師がどんな髪型にしようかと議論をしてい
る。正体の知れない女がまわりをうろついて、水田に田植えをしたり、
二人の議論に口を挟んだりする。世界中を放浪してきたという旅人がそ
こにあらわれ、床屋の順番を待ちながら話に加わるが、前の客の髪型が
いつまでも決まらないので、あきらめて旅立ってしまう。
数年後、さらにその数年後に似たような場面が繰り返される。これだけ
なら、よくある不条理劇のようにも思えるが、話題というのが、地球環
境に関する、やけに具体的な議論なのである。
環境ホルモンによるワニの生殖能力低下や北極グマからDDTが検出され
た話。また、第1場では911テロ、第2場では2004年末の東南ア
ジア大津波が話題となる。このジャーナリスティックで直接的な言語が、
妙に居心地を悪くさせる。象徴的なセリフや場面の意味をあれこれ考え
る面白さのかわりに、ニュースキャスターの言葉が入ってきてしまうと
興ざめなのだ。
舞台美術もそれ自体としては目をひく。不完全なドームの骨格のような
屋根がついた、床屋のフロアは周囲より一段低くなっており、ここにや
がて、水が張られていく。床屋のフロアは丸く、青と白のまだらになっ
ており、地球を意味しているのがわかる。つまり温室効果による海面の
上昇ということだ。その他大がかりないくつかの仕掛けは意表をつき、
迫力もあるが、これもまたイメージを固定してしまう嫌いがある。
作劇のモチーフの一つは作者が中国語で読んだ、小林一茶の俳句集だ
という。日本語に戻された一茶の句は、有名な「やせがえる」の句を
含めて何句か引用されていたが、むしろ日本人である私たち観客が一茶
の句をとっさに解釈しきれないのだ。結果、ほとんど有効にセリフのな
かで機能しない。これは翻訳上の誤算だったかもしれない。
現代人を揶揄した辛辣なセリフは痛く、印象に残る。笑いもある。テー
マも悪くはない。セットも美しい。しかし、どこかギクシャクとした印
象を持たざるをえない翻訳劇だった。

上演情報
新国立劇場 シリーズ「われわれは、どこへいくのか」(1)『カエル』
2006年4月1日~13日 新国立劇場小劇場
作:過士行  翻訳:菱沼彬晁  演出:鵜山 仁
出演:千葉哲也 有薗芳記 宮本裕子 今井朋彦
http://www.nntt.jac.go.jp/season/updata/10000094.html
 ■イギリス演劇も「まつり」になる?
   -- テレンス・ラティガン『セパレート・テーブルズ』

昨年の秋から冬にかけて、イギリスの劇作家テレンス・ラティガンの作
品が連続上演された。鈴木裕美主宰の〈自転車キンクリーツカンパニー〉
による「自転車キンクリートSTORE」公演である。“ラティガンまつり”
と称したこの公演は、〈燐光群〉主宰の坂手洋二、〈劇団M.O.P.〉主宰
のマキノノゾミ、そして鈴木裕美自身という小劇場界の有名どころが、
それぞれの演出を担当するというものだった。

普段見慣れている舞台で目をひく俳優たちが大挙して出演していること
や、第1作の演出家坂手洋二が第3作に俳優として出演するという話題な
どにひかれた。9月に幕が開いた1作目『ウィンズロウ・ボーイ』は、
はじめこそ入りが悪かったようだが、友人にすすめられて足を運んでみ
た後半にはすでに客席は満杯になっていた。

この『ウィンズロウ・ボーイ』も、10月の『ブラウニング・バージョン』
(鈴木裕美演出)も実に面白かった。テレンス・ラティガン Terence
Rattigan(1911-1977)は1940~50年代イギリス演劇界の第一人者と呼ば
れたヒットメーカーで、喜劇からシリアスドラマまで、幅広く作品を遺
した劇作家とのこと。

前の2作があまりによかったため、不安と期待をいだきながら、師走の
新宿へ出向いた。3作目、『セパレート・テーブルズ』である。上演時
間は休憩を挟んで3時間を越えた。というのも、この作品は、郊外のホ
テルと、女支配人、長期滞在する老人たちという「背景」を同一にしな
がら、時を異にして、中心となる二人の登場人物は第一部と第二部で異
なるという作りなのだ。

第一部、ジョー・マルカムという飲んだくれのジャーナリスト(坂手洋
二)は、ホテルにやってきたシャングラント夫人(神野三鈴)が、暴力沙
汰の末に別れた昔の妻であると気づく。夫人は後に結婚した金持ちのも
とで不自由なく暮らしているが、幸せではなくモデルとしての容貌の衰
えに恐怖を感じている。マルカムもまた孤独な日々を送っている。

演出家坂手が(昔は舞台に出ていたようだが)素人臭くない、重厚な演技
を披露したことに驚いたが、受ける神野がさらによい。こまつ座で、コ
ミカルな演技しか見ていなかったのだが、11月の新国立劇場『屋上庭園/
動員挿話』に続いて、素晴らしい演技だった。中年に近づいた切ない女
性の心を、その不思議とよく通る声の響きによって、客席まで浸透させ
た。私は、ひそかに昨年の極私的主演女優賞を神野に与えることにした。

第二部、レールトンベル夫人の娘シビル(山田まりや)は30歳を過ぎても、
病気がちで働けず、母とともにホテルに長期滞在している。今でいうひ
きこもりかニートのような女性だ。彼女は陽気な退役軍人ポロックに好
意を寄せているのだが、ポロックは街の映画館で痴漢まがいの行為をし
て、新聞沙汰になってしまう。レールトンベルは滞在者を代表して、
ポロックを追い出すように支配人に詰め寄る。

ここではやはり山田まりやだ。グラビアアイドル出身でバラエティーや
商業演劇では天真爛漫なキャラクターを演じることが多い彼女が、暗く、
話すのもおぼつかないような正反対ともいえる役を、実にうまくこなし
ていた。これだけ演技の幅を持つ女優になっていたのかとこれも驚いた。
他にも前後半を通して、凛とした支配人を演じた久世星佳、エキセント
リックな老婦人の南谷朝子など、印象深い演技者が多く、上演時間の長
さを感じさせなかった。

ただ、第二部でポロックが犯す性的犯罪に対する作品自体の結末がしめ
す価値観(結局許す、ということ)は、破廉恥な行為の続発する現代の目
からすると、全面的には受け入れがたいという気もするのだが、このあ
たりは時代との関連をもう少し精査すべき事柄なのかもしれない。

いずれにせよ、ラティガンは、人間の持つ弱さ、過去に陥った過ちのゆ
えの苦しみに、深く共感し、そこから再び立ち上がろうとする意志に、
それがどんなに小さなものであろうと希望をおいている。そうしたこと
が、大上段に「クサく」叫ばれるのではなく、さりげなく、しかし力強
く語られているのだ。いくつかの欠点はみられたものの、「ラティガン
まつり」3作の上演は、2005年の翻訳劇上演のなかでも出色の出来で、
とても満足したのであった。

ホテルの食堂のそれぞれのテーブルに点されたローソクの灯りが、暗転
とともに消えていく美しい幕切れが今も心に残っている。

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上演記録
自転車キンクリートSTORE『セパレート・テーブルズ』
2005年12月15日(木)~23日(金)
全労済ホール/スペース・ゼロ
作:テレンス・ラティガン
翻訳・演出:マキノノゾミ
http://www.jitekin.com/html/kouen-joho.html
■ 翻訳劇のフシギ・翻訳劇の魅力 12          今井克佳

  能楽に化けたシェイクスピア
    ――「ク・ナウカで夢幻能な『オセロー』」

日本庭園の広い池を背景にした特設の能舞台(屋根はなし)。池の向こ
う岸の茶室までライトアップされ、まさに幽玄の世界である。11月を
迎え、夜は冷え込み、客席には毛布が用意されていた。山手線の駅から
徒歩数分とは思えない闇と静けさ。しかしときたま付近を走る自動車や
電車の音が遠く聞こえてくるのも一種の風情だ。上野の森の奥、国立博
物館本館の裏手にある日本庭園は、その昔寛永寺の一部だったというこ
とだ。小堀遠州が伏見に立てた茶室などいくつかの歴史的建物が移築さ
れている。

ここで夢幻能の形式に書き換えられた「オセロー」の物語が、演出家宮
城聰の率いる劇団「ク・ナウカ」によって上演された。複式夢幻能とは、
旅の僧侶(ワキ)の前にすでに亡くなった人物の霊(シテ)が現れ、そ
の人生の危機的状況を語り再現するのだ。前場(前半)ではシテは土地
の人の姿を借りて現れ、後場(後半)では、僧侶の夢に幻となって現れ
る。この上演では、「オセロー」ではなく、その嫉妬の犠牲となった貞
淑な妻、デズデモーナがシテとなって現れることになる。

形式は複式夢幻能だが、全くの能そのものではない。平川祐弘によって
脚色された謡曲は文語で書かれながらも現代的な言い回しをも含んでい
る。発声も能のそれではなく、一種独特の抑揚を持っている。このあた
りはク・ナウカ独特だ。この劇団のもっともユニークな手法として、確
立されてきた二人一役(一人の人物についてセリフを語る「話者」と演
技をする「動者」を置くいわば人形浄瑠璃のような表現だ)がある。今
回の上演は二人一役を固定せず、あるときには演技者自身がセリフを語
るが次の瞬間は舞台横に控えている「話者」がそのセリフをひきつぐ、
など、自在に駆使する表現だ。なお幕間狂言として、「オセロー」のス
トーリーがユーモラスに補完される。

音楽はパーカッションを中心とした打楽器の生演奏。能、文楽、東南ア
ジア風の音楽と仮面、シェイクスピアの物語。そして借景となった日本
庭園と、古今東西の文化が入り交じったような不思議な空間だった。デ
ズデモーナ役の美加里が、神秘的な美しさを演じて際立っていた。ク・
ナウカは現在、表現手法の追究として最もユニークで意識的な演劇集団
といってよいだろう。

それにしてもあの冷え込みのなか、屋根のない舞台での長時間の演技は
本当にきつかっただろう。役者さんたちに同情する。テント屋根のつい
た客席でさえ、配られた簡易カイロが実にありがたかったのだから。

上演記録
ク・ナウカで夢幻能な「オセロー」
期間:2005年11月1日(火)~11月13日(日)
会場:東京国立博物館 日本庭園 特設能舞台
原作: シェイクスピア
謡曲台本: 平川祐弘
演出: 宮城聰
間狂言: 小田島雄志訳ニヨル
http://www.kunauka.or.jp/jp/index.htm
■ 翻訳劇のフシギ・翻訳劇の魅力 11          今井克佳

廃校のファンタジー
         ――アートネットワーク・ジャパン+Ort-d.d プロデュース
                            『サーカス物語』

東京都心部では少子化のため小中学校の廃校が多くなった。そうした廃
校が様々な文化活動の拠点として利用され始めている。「にしすがも創
造舎」は豊島区の旧朝日中学校。芸術文化活動を通して国際文化交流の
促進を目的とする NPO法人「アートネットワーク・ジャパン」が主に演
劇の稽古場として運営している。

『モモ』や『果てしない物語』で知られるミヒャエル・エンデが遺した
いくつかの戯曲のうちのひとつが、この「にしすがも創造舎」で上演さ
れた。『サーカス物語』。演出は、Ort-d.d の倉迫康史である。建築現
場の空き地に残ったサーカス一座の面々。なかには知恵おくれの少女エ
リもいる。サーカスはすでに解散しており一座は近くの工場の宣伝活動
をするかどうか決断を迫られている。

やがてピエロのジョジョが、エリにせがまれて語る「お話」の中に舞台
は移る。エリはここでは「鏡の国」の王女、ジョジョは「明日の国」の
ジョアン王子である。二人は恋をするが、大蜘蛛のアングラマインによ
って国を奪われた王子は地上に追われ、王女もまた王子を求めて不死の
身を捨てて地上に降り、二人はお互いを知らぬままサーカスの一座に加
わる。

体育館の中に組まれたセットは、空間の広がりを生かし、鉄パイプで高
く組み上げられ、物語の大枠である、サーカス跡地の寂れた雰囲気を良
く出している。音楽は生演奏。しかし劇場として作られた空間ではない
ので、一部マイクを通しても声が通らず聞こえにくいのは残念。

王女の愛の力によって最後は自分の王国「明日の国」を大蜘蛛から取り
戻す王子。善悪二元論といい、昔話の構造そのものといい、いかにも理
想的で単純。が、最後に枠である建築現場に話が戻り、工場との契約書
を破った芸人たちに、クレーンや機械の轟音がせまるところで暗転。こ
の演出が強調した苦い結末は、むしろ現在への問いかけとしてふさわし
い。

廃校に立ち上げられた「創造」と名のつく施設での、廃されたサーカス
と「創造」の物語。現実の場と物語のリンクを、身を以て体験すること
は、演劇の醍醐味のひとつである。「創造」は「明日」を取り戻せるの
だろうか。

◆上演記録
アートネットワーク・ジャパン+Ort-d.d プロデュース『サーカス物語』
http://anj.or.jp/anj/sozosha/topics/200508_01.html
原作 ミヒャエル・エンデ
翻訳 矢川澄子
演出 倉迫康史(Ort-d.d)
2005年10月7日(金)~10日(月・祝)
にしすがも創造舎特設会場
■ 翻訳劇のフシギ・翻訳劇の魅力 9         今井克佳

『尺には尺を』

「子どものためのシェイクスピアカンパニー」なのだそうだ。毎年夏
に上演してもう11作目(再演含む)。評判なので覗いてみた。平日
ソワレとはいえ、客席にお子様はほとんどいない。まあ後ろの列の行
儀と頭の悪そうな男子学生らしき方々が、まあ「お子様」ともいえた
が、その方々が「子どものためじゃないじゃん」と幕間に話していた
がむべなるかな。

『尺には尺を』Measure for Measure はシェイクスピアの「問題劇」
の一つだそうだ。「問題劇」とは、パンフによれば「見終わって、す
っきりしない」物語のことらしい。ウィーンの公爵ヴィンセンシオは、
目論みあって忠実な部下アンジェロに市政を任せ、旅に出る。とみせ
かけ実は修道士に身をやつし、アンジェロがどんな政治を行うか見守
っているのだ。脚色家はこれを「アンジェロ観察旅絵日記」と名付け
笑いをとる。

ストーリーの骨格を保ちながら、脇筋をそぎ落とし、現代的な言葉と
解釈で面白く脚色したところが「子どものため」ということらしいが、
決して「子どもだからあたりさわりなく、可愛らしく」と媚びてはい
ない。市政を任されたアンジェロは形骸化していた男女関係に関する
古い法律を持ち出し、結婚前に女を孕ませた男クローディオに死刑を
言い渡す。ところが兄のクローディオを救おうと命乞いに来た妹の修
道尼イザベラに恋をしてしまい、兄の命を救う代わりに一夜を共にせ
よとせまる。

うーん、現代にもありそうなセクハラ話。さすが「子どものため」。
意外とこういう方がきょうびの小学生は集中するかも。イザベラの危
機に、突如現れた謎の修道士(実は公爵)は、解決策を講じるのだが・
・早い展開、あっという間に結末。しかしこりゃほんとに納得がいか
ない終わり方だ。今回の脚色は、非常に面白い結末の解釈を付け加え、
原作ではすっきりしない物語を皮肉たっぷりの現代的風刺にしてみせ
た。

黒づくめの登場人物たちがクラッピング(拍手)しながら登場・退場
する演出や、抽象的でシンプルな舞台装置、多くが二役を演じる俳優
の技量。とてもスタイリッシュな舞台で、むしろ大人に薦めたい「子
どものためのシェイクスピア」だ。

【上演情報】『子供のためのシェイクスピアカンパニー 尺には尺を』
東京公演 7月13日~19日(地方公演あり)
作 W・シェイクスピア  翻訳 小田島雄志
脚色・演出 山崎清介
http://homepage1.nifty.com/j-ishikawa/kodomo/company/
■ 翻訳劇のフシギ・翻訳劇の魅力 9           今井克佳

『まちがいの狂言』

勘三郎襲名で沸く五月の歌舞伎座では、野田秀樹脚本・演出の演目が上
演され、続いて七月には蜷川幸男演出のシェイクスピア『十二夜』が歌
舞伎となって初演されるとのこと。伝統芸能と現代劇・翻訳劇のコラボ
レーションは急速に広がりつつある。面白い時代だ。

この『まちがいの狂言』も、そうした試みの早い時期の結実である。シ
ェイクスピア『間違いの喜劇』を故高橋康也が狂言仕立てに翻案し、ロ
ンドン在外研修の経験もある野村萬斎が演出、彼を含めた同門の狂言役
者たちによって2001年に初演され、ロンドン・グローブ座というシェイ
クスピア劇のお座敷で上演を果たしている。今回は再演だ。

世田谷パブリックシアターの客席に入ろうとすると、黒い面をつけた不
気味な存在に、いきなり「ややこしや」と声をかけられる。場内はすで
に舞台である「黒草の国」(原作ではエフェソス)の世界なのだ。ステ
ージは能舞台ではなく、橋懸けもない。グローブ座での上演を前提とし
て作られた舞台装置と美術は能舞台のシンプルさを保ちつつ左右対称の
独自の意匠である。

内容は抱腹絶倒。幼い頃に生き別れとなった瓜二つの双子の主従二組。
それぞれ「白草(シラクサ)」と「黒草」に住み成長するが、片割れを
探す旅に出た「白草」の主従が「黒草」の国に迷いこみ、混乱が起こる。

双子の主従は石田幸男と野村萬斎が二役を兼ねるが、仕草・声音・面・
登場の方向などをうまく使い分けるので、見巧者の観客には容易に区別
がつく。狂言独特の衣装やせりふの言い回しなど、狂言に親しんだ者に
はその移植の妙も楽しい。が、狂言にはない、現代劇風の演出やお笑い
芸能の引用と思われる要素も見られ、狂言を知らない層にもとっつきや
すい。複雑に絡み合った伏線が最後にはすべて結びつき大団円となるシ
ェイクスピアの物語の力にも驚嘆する。

シェイクスピアと狂言はなぜこんなにも相性がいいのか?いや、そうで
はなくこの作品を作り上げた才能たちの勝利なのか。文化混交であると
ともに、統一されたエンターテイメント・ドラマとして成立している見
事な達成である。

【上演情報】『まちがいの狂言』
世田谷パブリックシアター 2005年5月8日~22日
原作 W・シェイクスピア 「間違いの喜劇」
作 高橋康也 演出 野村萬斎 出演 野村万作 野村万之介 
     野村萬斎 石田幸男 他
■ 翻訳劇のフシギ・翻訳劇の魅力 8          今井克佳

  『亜門版・ファンタスティックス』

たまにはミュージカルの話をしよう。

東京では『キャッツ』を始めとする劇団四季作品や、『レ・ミセラブル』
の東宝など、大規模輸入ミュージカルが人気を博しているが、これはそ
ういった派手なミュージカルではない。トム・ジョーンズ(脚本・作詞)
とハーヴェイ・シュミット(作曲)が45年前、オフブロードウェイにか
けたこの作品は、8人の出演者(そのうち一人は「黙者」Mute と称して
黒子に徹する)でこじんまりと構成された、若者の愛と成長をテーマに
したメルヘンである。しかしその後40年以上にわたってブロードウェイ
でロングランしたというのだから並大抵の作品ではない。

若者が恋を経て成長し、大人の愛にたどりつくには、大切なものを失わ
なければならない。たとえそれが幼い日のかけがえのない思い出という
宝物であっても。そんな切ない、青春を思い起こす心を持ち続けている
人の胸に迫る、真理を歌っているのだ。

『亜門版』は2003年の初演に続いての再演。ブロードウェイで初の日本
人演出家デビューを飾った凱旋公演としては地味だ。斬新な演出に才気
を感じる宮本亜門だが、今までの演出作品には毀誉褒貶もあるようだ。
今回は、何よりも出演者の歌唱が東宝や劇団四季に比較して、平均して
低調と感じられてしまうのが残念。

また歌詞の翻訳も難しい問題だ。たとえば美しいラストナンバー「トラ
イ・トゥ・リメンバー」Try To Remember の原詩を見ると、頭韻脚韻を
多用した、まさに歌われるべき詩なのだが、いかに優秀な翻訳者であっ
ても日本語で同様の効果を再現しきるのは難しい。結果、この珠玉のよ
うな名作の魅力は幾分かそがれてしまっているのだと思う。

宮本亜門の演出はそれを幾分かでも補ってくれた。舞台装置を極限まで
抑えた小さな舞台で俳優を演じさせ、観客の想像力を喚起する。特に
「黙者」がディズニーの妖精さながらアクロバティックに動き回り、金
銀の紙吹雪を降らせる趣向にはうっとりさせられた。日本でももっとこ
ういう小規模ミュージカルが実力をつけ、人気を得ることを願ってやま
ない。

上演情報 『亜門版・ファンタスティックス』
http://www.setagaya-ac.or.jp/sept/jouhou/04-2-4-56.html
世田谷パブリックシアター 2005年2月27日(日)~3月13日(日)
(地方公演あり)
脚本・作詞:トム・ジョーンズ  作曲:ハーヴェイ・シュミット
演出:宮本亜門  翻訳:山内あゆ子  訳詞:小池一子
上演台本翻訳:宮本亜門・北村直子

今後期待する翻訳劇上演
『メディア』 シアターコクーン 2005年5月6日(金)~5月28日(土)
http://www.bunkamura.co.jp/cocoon/event/media/index.html
■ 翻訳劇のフシギ・翻訳劇の魅力 7          今井克佳

『喪服の似合うエレクトラ』

昨年、新国立劇場で上演された『喪服の似合うエレクトラ』(ユージン・
オニール作)が、第4回朝日舞台芸術賞のグランプリを受賞した。遅れ
ばせながらこの作品についてレポートしておくことにしたい。

ギリシャ悲劇『エレクトラ』の設定を南北戦争時代のアメリカに設定を
変え、ある家族の歴史を通して、これでもかと人間の愛憎の応酬を描く
心理劇。一幕、しょっぱなから、母クリスティン(三田和代)と娘ラヴ
ィニア (大竹しのぶ)の緊迫した対立に息もつけない。あまりにも表情
が恐ろしく、硬いのではと思うが、実はト書きには「仮面のような表情」
と書いてあるとのこと。

二幕に入り弟オリン(堺雅人)が登場し、姉と母への愛に翻弄されなが
ら、神経を病んでいく過程を悲しいながらもおかしみを交えて演じる。
愛ゆえの復讐に継ぐ復讐の連鎖はとどまることを知らず、ついには姉弟
それぞれの婚約者にまで降りかかろうとする。

作品の書かれた1920年代のアバンギャルド芸術を彷彿とさせるような斜
線と歪みを持つ舞台装置(美術:島次郎)も秀逸。そして劇中にはアメ
リカ国旗がしばしば現れる。母親の愛人である船長アダムを姉弟が殺害
するシーンで、船のマストに翻る星条旗。軍人である父エズラの棺にか
けられた星条旗。そして父の棺が消えても部屋に敷かれたまま姉弟の争
いの道具となる星条旗。それらを見ると、現代史におけるアメリカ合衆
国の位置を思い起こさずにはいられない。

復讐の連鎖劇を終演(終焉)させるには、ラヴィニアがしたように自ら
を罰するため屋敷の中に永遠に閉じこもる他ないのか。神話や家族の心
理劇を超えて、この問いは現代史を生きる私たちにまで届いている。休
憩二回、3時間40分の濃厚なマチネを見終わるとすでに外はすっかり
暗くなっていた。

上演:新国立劇場中劇場 2004年11月16日(火)~12月5日(日)
作:ユージン・オニール 翻訳:沼澤洽治 演出:栗山民也
出演:大竹しのぶ 堺雅人 吉田鋼太郎 津嘉山正種 三田和代 他
http://www.nntt.jac.go.jp/frecord/play/2004%7E2005/electra/electra.html


【今後期待する翻訳劇上演】
・『コーカサスの白墨の輪』世田谷パブリックシアター
1月30日(日)~2月20日(日)※まつもと市民芸術館でも上演あり。
http://www.setagaya-ac.or.jp/sept/jouhou/04-2-4-48.html

・『Shakespear's R&J』パルコ劇場
2月1日(火)~2月20日(日) ※全国公演あり
http://www.parco-play.com/web/page/information/r_and_j/
■ 翻訳劇のフシギ・翻訳劇の魅力 6          今井克佳

『ピローマン』

10月にシアタートラムで上演された『溺れた世界』(ゲーリー・オーウ
ェン作)もそうだったが、なぜ、イギリスの若い劇作家は、作品世界の
枠組みとして、時代の特定できない全体主義国家を想定するのであろう
か。昨年度のローレンス・オリヴィエ賞新作最優秀賞を受賞した、マー
ティン・マグドナーの『ピローマン』(The Pillowman)は東欧のある国
家が舞台とされているらしいが、時代は、現代とも冷戦下とも言い切れ
ない。

悲惨な童話ばかり書くカトリアンは、三人の子供が作品と同じ方法で殺
されたため、理不尽な権力を持つその国の警察に拘束され拷問を受ける。
カトリアンは、両親の虐待のために知的障害となった兄ミハイルと同居
しており、兄も拘束されるが、やがて、この兄がカトリアンの読み聞か
せた童話の内容の通りに子供たちを手にかけてしまったことが明らかに
なる。取り調べの過程で、たくさんのもの悲しく、暗い童話が語られ、
彼ら兄弟の不幸な過去や、二人の刑事の性癖や過去も明らかになってい
く。

陰惨で救いがなく、それでいてどこか優しく切ない物語の数々。警察の
私刑による間近な死を覚悟したカトリアンの最後の願いは、これらの未
発表の作品が永遠に遺されること。理不尽な射殺の直前まで、彼はあら
ゆる言葉を尽くしてそれを望み続ける。

両親の実験とされる兄への不気味な虐待が、弟カトリアンの書く悲惨な
物語と兄の知的障害を生み、その物語が子供殺しという現実を生む。が、
殺伐でない、たった一つの作品「小さな緑のブタ」もまた兄の手により
現実となっていたことが、全体の物語に救いを与えることとなる。この
劇作自体が物語ることの存続と書くことの永遠性を希求する物語なのだ。

それにしても唐突ともいえる抑圧社会の舞台設定と兄弟の両親の無慈悲
な虐待は、劇作のテーマを強調するための強引な道具立てに過ぎないの
だろうか。現実世界では、上演期間と前後してイラクや国内で劇作の内
容とリンクするような恐ろしい事件が起こった。マクドナーの描いた理
不尽な抑圧社会は、彼の目を通した現実世界の黙示録なのであろうか。
物語を書くことは果たして現実の世界を救うのか、壊すのか。あるいは
劇中のカトリアンの言葉のように、作家はただ書くことだけが使命なの
か。深く考えさせられるテーマである。

主演の高橋克美を筆頭に四人の男優が抜群に上手く、三時間を超える上
演時間も気にならない。

【上演】
東京公演 PALCO劇場  2004年11月6日~23日
作 マーティン・マクドナー
翻訳 目黒 条
演出  長塚圭史
出演  高橋克実 山崎 一 中山祐一朗 近藤芳正 ほか
■ 翻訳劇のフシギ・翻訳劇の魅力 5          今井克佳

『ときはなたれて』/『チェーホフ的気分』

実在の人物が実際に発した言葉を素材に構成された芝居を、偶然にも続
けて二本観た。

一つ目は燐光群アトリエの会の『ときはなたれて』The Exonerated。作
者らは2000年にアメリカ全土を旅して、無実の罪で死刑判決を受け、
後に釈放された人々にインタビューをしたという。彼らの収監期間は数
年から数十年。これらを素材として、裁判記録をも含めてこの劇作は構
成された。

会場は「梅ヶ丘BOX」。客が50人入ればいっぱいの、稽古場を兼ねた小
空間だが比較的新しい建物のせいか、小劇場につきもののアングラ臭は
感じられない。床は落ち葉の散り敷いた公園の一隅のようにしつらえら
れて、木製の腰掛の他には何の装置もない。主要な六人の俳優はここに
腰かけ、交互に立ち上がって、自分が逮捕され、判決を受け、収監され、
釈放されるまでの顛末を断片的に語り継いでいく。差別・偽証・任務怠
慢・監獄での虐待。おそるべき人間の闇。そして世界で一番優れて強い
民主国家であるはずの国の抱える、愚かさと弱さ。

長方形の空間の長辺に二列だけの客席は、裁判の陪審席のようだ。弁護
士や検事役の俳優は陪審員である観客に向かって語りかける。この小空
間を共有した私たちは、否応なしにこれらの事件の目撃者・取材者・証
言者となるのだ。社会問題を取り上げ続ける燐光群の坂手洋二演出は、
だが一種のポップさも持ち合わせており、深刻過ぎず受け入れやすい。
長い年月の後、深淵から生還した人々の言葉は時に哲学的な響きを伴い
心に残る。

二つ目は劇団昴の『チェーホフ的気分』。没後百年ということで今年は
チェーホフ上演が盛んだが、この作品はチェーホフと、妹を含む五人の
女性、および編集者との間に交された書簡の言葉を主な素材として、劇
作『かもめ』のセリフも取り入れて構成されている。

舞台中央にチェーホフの位置する仕事机。それを囲むようにそれぞれの
登場人物の空間が割り当てられ、俳優はセリフのない時もほぼ常に舞台
上に存在してそれぞれの時間を過ごしている。チェーホフを囲む人間関
係を空間として見せてくれる。複数の女性と並行して愛を語り、愛され
たチェーホフ。医者であり作家、長身でハンサム。モテモテで、そのく
せ、いざとなると度胸のない男。現代にも存在しそうなタイプである。

作者のユーリー・ブイチコフは、資料研究を通じて新たなチェーホフ像の
提出に成功している。が、背景知識なしで観るには、少し難解過ぎ、演
出も真面目過ぎるのが欠点だ。歌も入るユニークな展開。特に女優達が
生き生きとして魅力的だった。

【上演】
『ときはなたれて』燐光群アトリエの会
 東京公演「梅ヶ丘BOX」2004年10月1日~11月2日
 作:ジェシカ・ブランク&エリック・ジェンセン
 翻訳:常田景子  演出:坂手洋二

『チェーホフ的気分』劇団昴
 三百人劇場 2004年10月21日~11月3日
 作:ユーリー・ブイチコフ
 翻訳:中本信幸  演出:菊池准

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